ここまで一作品について、いちいち何度もしつこく記事を書くのも珍しい。
それほどの奥行きと広がりを持った、かつバランスの取れた傑作となる可能性が高い。
完全オリジナル作品ということで、結末は制作者以外知らないが、おそらくハッピーエンドになると思われる。
総合スコアリングはその後にするとして、今回は登場人物の在り様、人物や設定についてのメモである。
1.「反逆者」真島と「抵抗者」千束
1)真島という人物
12話までの話の中で、テロリスト真島は、新電波塔「延空木」を占拠しつつ、自らが入手した1000丁の銃を東京都内にバラ撒く。犯罪を未然に闇に葬る秘密組織DAのエージェント、リコリスの存在を白日の下に晒す。
彼は、そうした超法規的かつパターナリステックな権力者への反攻を呼びかけるのではなく、ただただバラ撒かれた銃を手にした人にリコリスが何をするのか、手にした各人がリコリスにいかに対峙するのかを、皆にゆだね、傍観する。
誰かの傲慢なパターナリズムの下に恥部を隠された平和を否定したうえで、自らの力で切り開く未来か否か、それ自体を人々にゆだねようとする。
ニーチェの「超人」のような人間のみが生き残る、ある種のアナーキズムを志向しているかの如くである。
そうした意味で、既存秩序の破壊を志向し、それに同調するか否かも、強い自我を持つべき各人にゆだねるという、「自己決定と自律」という意味での自由の極北を愛するのが彼の立ち位置なのであろう。
そう、彼が立つのは善悪の「彼岸」なのである。
本作品のタイトル「跳ねっ返りの彼岸花」と、意味がかかっているのだろうか?
ここでは彼を、反逆者と呼びたい。
2)千束という人物
千束は違う。
彼女は、先天性の心臓疾患を、未来の才能を支援する財団である「アラン機関」から供与された特殊な人工心臓への置換手術によって克服した。しかしその「与えられた」命には対価があった。彼女はアラン機関から天才的な殺しの才能を見出されたからこそ支援されたのであり、DA史上最強のリコリスとして、悪人(※DAにとっての)の抹殺をすることが求められていた。
しかし、育ての親でありDAの指揮官でもあったミカ、お姉さん格のミズキたちに大切に育てられ、「人のために役に立つ」人間でありたいと望むように成長した彼女は、不殺生を貫く異端のリコリスとして生きてきた。だからこそ、殺しのライセンスを持つエージェントにもかかわらず、日本語学校の助っ人講師をやったり、やくざのおっさんの面倒を見たり、迷いネコを探したりと便利屋家業に勤しんでもいたのである。
不殺を貫く彼女に業を煮やした、彼女への心臓置換手術を行ったアラン機関の一味、吉松は、彼女の人工心臓の電源供給をダウンさせ余命を2か月としたうえで、「リコリスとして悪人を殺せ」と迫る。
12話で千束は、スペアの人工心臓を自らに移植した(と主張する)吉松に「このスペアを使って生き残りたければ私を殺せ」と、悪魔の取引を迫られる。
人を殺すことを絶対的に拒む千束は、自らの命と引き換えにしてでも、心臓手術の恩人・吉松が生きることを願う。
とここまでは、なかなか残酷なストーリーである。果たして最終話でどう決着をつけるのか。
それはさておき、ここまでの千束を見てわかるのは、彼女は天真爛漫な存在ではあるが、決して従順ではないことだ。自らに課せられた使命や運命に、自らの命を懸けてでも逆らい、「やりたいこと、最優先」(第四話)で、自らの信じた道を歩む。
アラン機関は、人間には神に与えられた役割があり、機関が支援する「天才」たちは、それを行使する義務=ミッション(神との契約上の使命)がある、と説く。
しかし、彼女はそれに逆らい、真島風に言えばその「才能を枯らして」人助けに勤しむ。
自らの命は自らが決めたように使う。人工心臓を得たとはいえ、吉松の細工がなくとも余命は20歳まで持つか、という限られた時間を生きてきた彼女は、この哲学に基づき生きてきた。
彼女の在り様は、非常に実存主義的である。そう、サルトルの主張したあれだ。
第9話、心臓の電源供給を破壊された後で、それぞれの道を歩むことを誓う千束とたきな。問いかけたたきなに、千束は言う。
たきな:「世の中は理不尽なことばかりです…そうは思いませんか?」
千束:「自分でどうにもならないことに悩んでもしょうがない!
受け入れて~全力っ!
だいたいそれでいいことが起こるんだ」
千束の言葉は、決して状況を受け入れ諦めた者の言葉ではない。状況に屈して駒にされた人間の、都合のいい言い訳でもない。
力の限り自らの在り様を貫こうとする者の言葉である。
ここに、超人というものを克服した、実存としての自分を生きる人の姿がある*1。
社会をひっくり返すことをいとわない真島と、社会がどうなろうと、人がいかに自分を傷つけようと、決して自らの存在を曲げない千束。
真島を「反逆者」とするならば、ヒロイン・千束はまさに、押し潰そうとする力をいなし、身を翻し、つまり銃の撃発にリコイルする遊底のようにしなやかに己の在り様を貫徹する「抵抗者」である。
こうした、幾分哲学的説明すらも可能なほどの奥行きのあるヒロイズム、その対照性が、この物語の最大の魅力だ。
2.千束とたきな
監督の足立氏は、この二人の人間に、かつて氏が関わった大作「ソードアート・オンライン アリシゼーション」のキリトとユージンを重ねる瞬間もあったのではないだろうか?
互いに手を取り合う陽と陰の二人の主人公。日の光のような一人に導かれて変わり成長していくもう一人。
本作のOP曲Claris"ALIVE"は千束を主題にした歌詞で、ED曲さユり「花の塔」はたきなを主題にしたものであることは、よくわかる。
これは、ちょうどアリシゼーション第一期の楽曲構成において、OP曲LiSA"ADAMAS"がキリトを、ED曲Eir「アイリス」がキリトに感化されて変化してゆくユージンを表しているのに相似する。
足立監督は、映画マニアとして多くの作劇場のヒロイズムに触れてきたと思われる。こうしたバディモノでかつ成長譚でもある「いいとこどり」の物語に、先行作品の血も通っているかと思うと、感慨深いものがある。
3.最終話・千束たちの勝利条件
以上から、最終話における千束の勝利条件は二つである。
一つ目は、自らの生き様=不殺生と人助けを貫くこと。
二つ目は、上記を達したうえで生き残ること。
YouTubeなどで、熱心なファナティックたちの考察により、吉松の「自分の胸に人工心臓を埋め込んだ」というのは、千束に人殺しを迫るための方便で、本当はアタッシェケースに人工心臓を画しているのでは、と言われている。
あとは、たきな、チームリコリコ、真島、DA、それぞれがどう絡んで、どのように吉松から人工心臓を「手渡させるか」だろう。
ポイントは、吉松から心臓を奪い取るのではなく、彼の意志で供出させることができるかだと予想している(予想を裏切る展開が続いているので、思いっきり外れるかも知らんが)。
真摯で懸命な跳ねっ返り娘たちに、良い展望が開けてくれるといいが。
※※以上、最終話視聴前の期待と予測は、それを上回る形で裏切られた。
全話終了後の詳細な評価検討は、以下記事において行った。