86 -eighty six-成長譚と言葉の重み(第4話までネタバレあり)
2021年4月期放映アニメ、私の印象ではかなりアタリが多い。近年稀に見るくらい、足腰のしっかりした作品が見られる。
振り返ってみれば、2013年春クール(進撃第一期、俺ガイル、はたらく魔王さまなどのあった時期)以来かな、というほどの印象。
「Vivy fluorite eyes song」「ゾンビランドサガ Revenge」「スーパーカブ」などの、演出のバッチリと効いた秀作があるが、今回は掲題作品を取り上げる。
序:1.ー1 86 -eighty six-という作品
この作品のヒロインほど、聡明で清廉なヒロインは、ちょっとお目にかかったことがない。
舞台は「無人機」による戦争が繰り広げられる未来の世界。
隣国の無人機による大攻勢にさらされたサンマグノリア共和国は、自国の無人兵器「ジャガーノート」で国境線を防衛し、「死者ゼロ」の戦争を繰り広げていた。
しかし、サンマグノリア軍の兵器が「無人」であるというのは欺瞞で、実は兵器には人と認められない被差別民「エイティシックス」たちが搭乗させられ、過酷な戦闘を強いられていた。「エイティシックス」は人ではないから、彼らが死んでも戦死者は出ていない、というのが、政府の見解であった。
戦場で戦うエイティシックスたち、いわゆる「プロセッサ」を、首都から遠隔で指揮するのは、銀髪碧眼の優越人種「アルバ」の指揮官「ハンドラー」たちである。
ハンドラーでありながら、戦場で戦うエイティシックスたちと対等な人間として接しようとする異色の指揮官が、ヒロインであるヴラディレーナ・ミリーゼ(レーナ)である。
優秀な戦術指揮能力から、最年少で少佐に昇進した実績を買われ、遠隔で指揮しているはずのハンドラーの多くを発狂させたという噂のある謎のプロセッサ「アンダーテイカー」が率いるスピアヘッド戦隊の指揮を任されるところから、物語は始まる。
序:1.ー2「隔てられた二つの世界」
この作品は、「隔てられた二つの世界」の描き方に、非常に心を砕いている。
遠隔指揮をするハンドラーと現場のプロセッサをつなぐのは、聴覚機能を共有する「パラレイド」という機器であり、視角は共有されない。ハンドラーは作戦指揮室から、ハンドラーの位置情報を示すマップのみを見ながら指揮をする。この設定が、否応なく当事者の隔てられた世界を感じさせ、ハンドラーに戦闘の現実感を損なわせる。
作中では、戦闘シーン以外の日常生活を描くシーンが丁寧に描かれている。そのような場での、レーナとアンダーテイカーらプロセッサたちとのパラレイドを介した会話にも、描き方に工夫がある。同じ会話の場面をプロセッサ側、レーナ側それぞれから二回、描くのである。
同じ時間を共有し、同じ話題に興じていながら、住む世界は違い、違うものを見ている。レーナはスピアヘッドの面々と打ち解けようと心を砕く(差別的な普通のハンドラーはこんなことをしない)が、プロセッサたちは陰で彼女を「偽善者の白豚姫」と悪罵し、心を開こうとはしない。
分断された世界の中で、スピアヘッド戦隊に寄り添いながら、レーナは世界の現実を目の当たりにし、成長していく。
本:2.-1「成長物語の描き方の方向性」
通常、大きな理想を掲げるも、それが若さゆえの不遜な考えでもあり挫折し、これを経て大きく成長するという話は、ビルドゥンクスロマン(成長物語)の定番である。しかしこの挫折シークエンスの設計は、どうやらかなり難しい。
大上段に振りかぶった高邁な、あるいは傲慢な理想を振りかざし、そこからの転落を描くことは、読み手にどうしてもストレスを強いるからである。このストレスの配合を間違えると、エンターテインメント作品として見づらく、時には見苦しくすらなる。失敗例は枚挙にいとまがないため割愛するが、成功例とそれぞれの採った戦略を見てみよう。
1)正面突破型
まず、挫折の苦しみと成長を正面突破で描き、視聴者に苦痛を強いながらも(笑)、魅せきった良作として、「エウレカセブン」を挙げておこう。
主人公レントンの父への思い、壁として立ちはだかるホランド、彼の成長のきっかけを与えたビームス夫妻、エウレカと歩く未来への道しるべとなったサクヤ等々、多くの登場人物に彩られる。この作品が苦痛を強いながらも成長を見せきった原動力は、絶対的ヒロイン・エウレカの魅力(彼女のキャラデザが少しくるってでもいれば危なかったのではないか)と、レントンの彼女への変わらぬ思いであろう。ラブロマンスとして力業で乗り切った感がある
「Re; ゼロから始める異世界生活」
こちらも正面突破型であろう。
この作品の本質は、実はタイムリープではなく、「人の記憶」であり、「人間存在とは記憶(=ストーリー=文脈)である」という存在論であろうと思うが、以下のコードギアスに紙幅を割いてしまったので、こちらは別の機会に。
死んだら一定の過去に戻ってやり直せる「死に戻り」能力を付与された主人公が、銀髪のハーフエルフ(この外見はかつて世界の半分を滅ぼした魔女と同じであり、忌避される)のヒロイン・エミリアと出会い、彼女とともに国王選定選挙に向けて、何度も死に戻り何度も苦闘を繰り返して、歩んでいく。
主人公のスバルはストレートに挫折し、ストレートに苦闘する。セカンドシーズン以降の「聖域解放」編では、エミリアの過酷な過去の記憶と成長も描かれ、がぜん魅力を増す。
物語を支えるのは、一つは男女問わず主人公を取り巻く魅力的な登場人物であり、さらに重要なのは、成長をドライブする「思い」=過去に他者から受け取った愛情である。
人は過去に出会った人との記憶に励まされ、今を生きる力を得る、というのは、この作品の通奏低音である。スバルやエミリア、ガーフィールにとっての親と過ごした日々の記憶は、今を生きる彼らを力づけ、成長を見守る。スバルにとってはさらに、レムの思いがこれに加わる。これが成長を駆動する原動力となり続ける点が、見る者にとって力強く、安心させられるのであろう。
京アニ出身の渡邊政治監督が設計する演出(タイムリープイベントや危機を暗示するリンゴの存在など)は、細かいところまで配慮され、冒険小説的な洒脱なせりふ回し(特にラムやオットー)などが相まって、エウレカセブンなどのド直球の成長譚に比べ、さらに洗練されたものとなっている。
2)ストーリー牽引型
「進撃の巨人」
主人公エレンの内面的な成長は著しい。一方、作品中盤に至るまで、これほどまでに能力的な成長をなかなかしない主人公も珍しい。そして繰り広げられる戦いのほとんどは、巨人に対する人間の負けである。だが、見る者を離さないのである。
エレンはその巨人化する能力をめぐってしょっちゅう拉致され、救い出されるシークエンスを繰り返す。救い出すときに活躍するのは、リヴァイやミカサなど、本作品で人気の1,2を争う面々である。お姫様救出ストーリー的なながれである。特に真の王、ヒストリア・レイスの戴冠に至るまでは、おおよそこういった物語の運動が基本となる。
それでも見る者を飽きさせないのは、「謎に満ちたミステリ仕立てのストーリー」「残虐さと紙一重のスリリングな展開」「各登場人物の非常に丁寧な掘り下げによる群像劇としての秀逸さ」であることは今更言うまでもない。
3)神業型
成長譚ではあるが、これはもはや叙事詩である、と思う。
世界の3分の2を支配する覇権的超大国ブリタニアの皇帝の落胤でありながら、植民地エリアイレブン(日本)の独立運動を指揮する仮面のカリスマ、ゼロ(ルルーシュ)は、「全てを壊し、全てを創る」という、「目的のために手段を選ばぬ」リーダーである。彼に立ちはだかる植民地出身の日本人にしてブリタニアの騎士スザクは、「ブリタニアを中から変える」ことを目指す。この二人の、「人間の在り方をかけた戦い」が、物語を後半まで牽引する。
ルルーシュが最終的に対決することになる皇帝シャルルや宰相シュナイゼルとも、対立軸は明確である。シャルルは「ありし理想の過去」に世界を固定することを望み、シュナイゼルは「妥協点である現実の今」に世界を縛ることを目指す。対するルルーシュは、「それでも私は、未来が欲しい」と、自らの命と引き換えに、世界の統合をもたらそうとする。
ルルーシュは、自らの謀略が引き金となり恋人シャーリーを殺され、革命の動機の原点にあった、自分が守ると決めた妹(彼女も皇帝の後胤である)とさえも対立するという困難と挫折を経ながらも、成長していく。
ルルーシュの挫折と成長が人を惹きつけるのは、挫折のスリリングさ(自らの持つ「絶対遵守のギアス」の誤作動により皇女ユーフェミアが日本人を虐殺する等)、苛烈さ(シャーリーを失った後のギアス嚮団の殲滅作戦)にみられる、ルルーシュの持つ「決断主義」と呼ばれる冷酷なまでのリーダーシップもあったとは思う。しかしより本質的には、「大切な人を守るために」始めた戦争が、彼の成長とともに徐々に目的を変え、「人類の未来を守るため」のものへと発展し、人類の文明史的な歩みへと彼を向かわせたスケールの大きさこそが、この作品の成長譚としての魅力であろう。
日本人が文学において最も苦手とする、叙事詩的大スケールの作品性が、否も応もなく見る者を釘づけにする。
「人に愛されるギアス(=呪い)」を得て以来1000年を生きる魔女C.C.の孤独や、ブリタニア貴族と日本人の女中の非嫡出子で、母を薬物に奪われた日本レジスタンスのエースパイロット紅月カレンの生い立ちなど、それぞれに重く生々しい苦悩が重層的に作り上げる世界は、他に類を見ない厚みがあることも付言しておく。
本:2.―2「エイティシックスの成長譚」
この作品は、4話までの視聴段階では、正面突破型の成長譚であろうと推測される。しかし、描き方が非常に真摯で、登場人物が「言葉を尽くして」成長していく点が、意外にも新鮮である。
レーナは、高潔な理想を抱くヒロインであるが、当然それは「持てる者の理想主義」に過ぎないものでもあった。彼女の持つ限界とその克服のシークエンスの描き方、これに至っては秀逸、としか言いようがない。
1)挫折へのプロセス―夜空の星をメタファーに―
第二話では、戦闘指揮の傍ら、彼女が士官学校で臨時講師をした際に、学生に向かって反エイティシックス差別の論陣を張る。憲兵警察の目が光る前での、勇気ある、あるいは蛮勇なる行動である。彼女は演説をこう締めくくる。
「いくら離れていても、我々は同じ星を見ているのです」
空は誰の上にも平等にある。エイティシックスにも、優越人種アルバにも。
そうだろうか?
第三話では、この言葉への応答が示される。
遠隔知覚共有装置パラレイドを介して、レーナがスピアヘッドの面々と定時連絡で雑談をしている時のことである。エイティシックスの戦場では、夜間は灯火管制がされるため流星群がきれいに見える、という話題が出る。レーナは、首都では街灯りのため星が見えない、と話を引き取り、うらやましがる。
彼らは、同じ空を見上げてすら、そこに同じ星を見ることは能わないのである。この後、スピアヘッドの戦闘員カイエ・タニヤが戦死したことをきっかけに、レーナの平等と正義への意志の根底を掘り崩す話につながる。
エイティシックスたちの戦場には、まともな地形図もない。カイエのいた場所が敵に狙われる死角であったことが古い地図ではわからず、レーナが気付いて退避を指示するのが一瞬遅れたのだ。
彼女の死を自らの戦闘指揮のためと嘆くレーナに、戦闘員セオト・リッカは厳しく当たる。お前に何がわかるのか、と。平和な首都から遠隔で指揮するハンドラーがいかに悼み悲しもうと、プロセッサからすれば所詮痛みを理解されているとは感じられない。レーナは軍規によりプロセッサの面々をコールサインで呼び、本名を知らない。セオトは、本名を知ろうともしない偽善者、と彼女に詰め寄る。
彼女はここで、自らの掲げる正義が張りぼてのものであることに気づかされる。
ここまでが、挫折へのプロセスである。
「夜空の星」というロマンチックで普遍的な道具立てを用いて、それすらも共有できない彼らの分断の有様を描く筆力は、なかなかのものである。
2)挫折へと至るプロセスが見る者にフラストレーションを強いない理由
レーナを挫折へと追い込むのだが、その過程でも、見る者は彼女に対して嫌悪感を抱くことはないだろう。
彼女は確かに理想主義的で清廉に過ぎた。しかし傲慢ではないのである。確かに、戦場を知らない彼女の定時連絡(普通のハンドラーはこのようにしてプロセッサとかかわろうとしない)に付き合わされるのは、スピアヘッドの面々にとっては面倒ではあっただろうが、それで迷惑をしている、とまでは言えない。
何より彼女は、指揮官としては抜群に優秀であり、彼女の抽象的な理念が戦闘に支障をきたしたわけでもない。つまり、彼女は「おイタ」らしい「おイタ」をやっていないのである。
世の中えてして、どちらかが一方的に悪いわけでなくとも、ちょっとしたすれ違いがもとで口論になることなどよくある。そういう点では、彼女がショックを受けた顛末はリアリティの高いものであり、フラストレーションを過度に強いるものでもないという点で、非常にバランス感覚の優れたストーリー展開術といえる。
3)挫折からの学び
ここからのシークエンスが、私がこの作品に感銘を受けた理由である。
「名前も知らないくせに」となじられたヒロインが挽回するためにやることといえば、そう、皆の名前を知ることである(笑
へたくそな原作・脚本であれば、ド直球の主人公が、いきなりみんなにパラレイドをつないで「昨日はゴメン!みんなの名前を教えて!!」と言って、
- さらなる大炎上(視聴者を含む)のうえ、大ヒンシュクという鬱展開
- スピアヘッドの皆がノーテンキで「よっしゃ、分かった!名前教えたるわ!!」となって、視聴者ズッコケ
かのどちらかであろう。
正直、私はこの展開を危惧して、ハラハラしながら展開を見守ったものである(何目線
しかし、作者はここで予想外に賢明な展開をもってきた。
レーナは、まずスピアヘッド戦隊長アンダーテイカーに謝罪と相談をしたのである。
長い二人の対話の末、
レーナ:「私は、死なせた部下と向き合いもせず嘆いただけで、ごめんなさい。」
レーナ:「もしできるなら、直接皆に謝らせていただけないでしょうか」
アンダーテイカー:「では、つながせましょうか、いまここで」
仕事の基本は、報告・連絡・相談である(えー
アンダーテイカーことシンエイ・ノウゼンに自らの反省の弁を述べ、他の隊員の感触を聞き、無用な刺激を避ける。いい判断である。こういう慎重な段取り、一見当たり前のように見えて、なかなか現実の仕事の場でもできる人は少ない。
デキる女と男の仕事は、見ていて清々しい(だから何目線
そのうえで、シンエイに取り次いでもらって、隊員全員に対して、彼女は言葉で誠意を尽くす。
レーナ:「戦隊各員、昨日も、これまでも、本当にすみませんでした。私はハンドラー。ヴラディレーナ・ミリーゼです。あなたたちを人として扱っていなかった。それを自覚もしていなかったのは、拒絶されて当然の振る舞いでした。
それでもまだ、答えてもらえるのなら、今からでも名前を・・・」
これでも、隊員たちがすぐに彼女を受け入れるほど、甘い展開は用意していない。
戦隊副長ライデン・シュガの言葉を引こう。
ライデン:「まず初めに謝っておこう。毎晩アンタが(パラレイドを)繋いでくるのを俺たちは、聖女気取りの豚が、自分の豚加減に気づきもしねーでおめでたいって、笑ってた。それについては詫びる。悪かった。」
ライデン:「そのうえで、だ。俺たちはあんたを、対等とも仲間とも思わない。アンタは俺たちを踏みつけたうえで、上から綺麗ごとを吹いている阿保だ。それはどうであろうと変わらないし、そうとしか見做さない。それでもいいっていうなら、これまで通りに暇つぶしに相手をしてやる。」
レーナ:「暇つぶしにでもなれるのなら、またこれからも繋がせてもらいます。」
結:3.この作品の聡明さ
差別や不当な支配は、容易には和解も理解ももたらさない。そのことを十分承知のうえで、それでも関わりあう辛抱強さと、理性と、知性がなければならない。
レーナの言葉は、誠実を尽くした謝罪ではあったが、それ一つでアルバとエイティシックスの壁が取り払われるわけではない。わだかまりはあれども、少しずつでも歩み寄るしか道はないのである。
この作品に際立つのは、登場人物の理性と、聡明さである。
屁理屈のようなレトリックを用いて差別を助長する風潮は、現実社会にあっては、トランプ主義などと相まって蔓延し、フェイクを平気で真実であると一点張りにがなり立て(「そのようなことは承知していない」や「丁寧に説明していく」などなど)、それ以外の言葉を尽くすことを否定する言語の貧困は、日本を含め世界を覆っている。
その中にあればこそ余計に、レーナやシンエイらの、隔絶された世界の中で互いの名を呼び合い、存在を認め合おうとする姿と、忍耐強い聡明さが美しい。
パラレイドは、技術上の理由から聴覚のみの共有が認められた機器、という設定である。この設定は、否応なく登場人物に、言葉のみでのコミュニケーションを強いる。言葉で言わずとも察してもらえる、などという甘えたことは許されない。言葉のみを以って、言葉をこそ尽くさねば、相互理解への道はないのである。
この作品は戦争モノではあるが、本質は会話劇である。そして「対話こそが相互理解、引いては正義への道であるのか」という問いが、この作品の根底には横たわっているようである。