小説第1巻から第4巻を読んでの雑感。
先日テレビアニメ放映が終了したエイティシックスの原作で、電撃文庫から出ている小説の雑感。
大変失礼な言い方なのは重々承知の上で言うと、存外、非常にお見事!!
アニメ化されたのは、原作の第3巻まで。
共和国の戦場で死線をくぐり抜け、行き着いた先のギアーデ連邦でも望んで戦野に身を置いたウォー・ジャンキー、シン。
堕落と汚俗にまみれた末に滅亡した共和国にあって、ただ一人高潔かつ有能な軍人として、才幹のかぎりを尽くして戦線を支えきったレーナ。
二人の再会、真の意味での出会いを描くまでが、映像化された。
その先の、物語として初めて、本当の意味で対等な仲間として、「バディ」として軍事作戦を展開する(まさに満を持して)のが、第4巻。
1.意外だった点その一
第2巻、第3巻のギアーデ連邦編が、全てシンの物語として描かれていた点。
先日のアニメ版総評で述べた点だが、どうやら原作からして、レーナの物語はもともと言及されていない。
第 1巻の「二人の物語」という枠組みからするとややアンバランスなようにも見えるが、これはどうやら原作者自身自覚しているようで(あとがき)、彼女自身(原作者は女性である。私より一つ年上で同世代の。)でもかなりアンコントローラブルなほど、シンが作者を振り切ったようだ。
原作を読めば、シンが作者を振り切った、その熱量がよくわかる。
彼は、ここまで描かれねばならない存在である。
2.意外だった点その二
文章がしっかりしている。
いや、馬鹿にしてんのかって言われるかもしれないけど、これ重要。めっちゃくちゃ重要。
ライトノベルレーベルは、おそらくその出版ペースの速さから、一般文芸レーベル(角川なら電撃やスニーカーなどがラノベ、一般は角川文庫)に比べて圧倒的に校閲がズタボロに甘い印象がある。偏見かもしれないが。
しかしその中にあって、この作品は極めて文章がしっかりしていて危なげがない。
これは、校閲に頼らずとも、本人にしっかりとした文章力が備わっている証拠だと思われる。
正直、真山仁あたりの経済小説などよりも、よほどしっかりしているくらいである。(筆者の印象では、昔の山崎豊子などや最近の池井戸潤くらいの一部を除いて、「経済小説」は直木賞などのエンタメ小説分野では、一段ほど文章力含めて小説としてのレベルが低いと思っている。経済系の新聞記者など他分野からの参入が多い分野であることも影響しているか?)
本作の原作者安里アサトに関して言えば、修飾語のバリエーションが極めて多い(これ自体は彼女の膂力の大きさである)。修飾過多ではある。逆に言えば、これほど過多な装飾を文章として破綻させずに紡ぐことができるほどの、確固とした文章力があるということでもある。
おそらく今後この作家の文章が進化していくとすれば、過多な修飾を排してより洗練された文章にしていく方向かもしれない、と思わせる。そうなれば、エンタメ小説の枠を超えて、純文学系の「名文家」に化けるかもしれない。
3.雑感
全体の構成としては、森博嗣の「スカイ・クロラ」シリーズから文芸作品としての範を取り、川原礫「ソードアートオンライン」から娯楽作品としての骨格を受け継いだように思える。
どうしようもなく戦いの中にしか身を置けない人の、常人の理解を超えた心理を、しかし読み手に対して説得力を持って紡いでいく。前者の血を受け継いでいるように思える。完全な独断だが。文体に関しても、森博嗣は、空中戦のシーンではトランス状態のような、祈りのような文体でパイロット草薙に舵を打たせ、スロットルを開けさせた。この作品で原作者の安里の文章は、トランス状態の祈りではなく、ただただ切なる願いのように、シンやレーナの心の内を表現する。その請い願うような切なさの中に、韻文の名残を感じる。
第3巻の最後、シンとレーナの再会のシーンでは、二人の心の独白が地の文で交互に発せられる。まさに、ドストエフスキーに始まり20世紀に開花した、ポリフォニーの文学(ここでは二人のため、デュエットである)の萌芽がある。これがもし将来、スピアヘッド戦隊はじめ八六機動打撃群の面々、さらには意志を持つ無数のレギオンたちの声として展開すれば、阿鼻叫喚のシンフォニーとなるやも知れぬと妄想させる。
骨格としては、それぞれにバトルステージを転換して、各ステージで人間関係を発展させ、さらに登場人物が直面する壁を、成長を(第 1巻では生き残ることを、第2巻・第3巻では生きて得る未来のことを、第4巻では生きて得る未来で掴むべき希望のことを)描いていく。
ロールプレイングゲームのネイティブである世代には慣れ親しんだシリーズ展開のさせ方であり、これはまさにソードアートオンラインが駆使した手法でもある。
4.作品のテーマ性
やはり前回の私の分析は誤りではなかった、と確信した。
この作品のテーマは、ありきたりながら「対話」である。
言葉も感情も知能さえも持たないレギオン。
人を人とも扱わず豚呼ばわりする旧共和国市民。
その共和国市民を人語を発する白豚と切り捨て、彼らに対して、いや人類全てに対して諦めを抱くエイティシックスたち。
人は自らの思いを伝えられない絶望の中で対話を止める。
絶望の世界にあって唯一の希望が、パラレイドを通して声で互いを思い合い支え合ってきたシンとレーナだ。
翻って、やがて物語の進捗の中で知能を有し、人と対話する種が現れてくるであろうレギオン。
本来共存ができるはずなのに、対話を拒み共存し得ない人間同士。
共存し得ないはずなのに、対話をし合えてしまう人とレギオン。
こうした対照が描かれていくのかもしれない。
5.結論
これが作者の商業作品としてのデビュー作である。文章の質の高さや、それぞれのバトルステージで登場人物の何を描きたいのか、敵味方含めてどのような展開が用意されているのか、かなり周到に設計されている。盤石な構造計算があらかじめなされているがゆえに、書きながら途中で多少の設定変更やストーリーの方針変更があっても、それを受け入れ物語として発展させられる懐の深さもある。
第2巻・第3巻がシンの物語となったのも、エンタメの戦術論としては最善手ではなかっただろうが、物語全体がその「暴走」を受け止め、破綻させずに前に進めたのは、基本骨格の強靭さのなせる技だろう。
さらに言えば、暴走できるほどの主人公を描き出せたというのは、それだけでも作品として大成功である。以前も述べたが、ただ盤上で動く駒としての狭量なキャラクター性しか与えられず、皮相的なコミュニケーションに終始するようでは、通常はすぐに物語として息切れしてしまう(西尾維新がそれでも保たせられるのは、おそらく西尾維新の異能ともいうべき才覚によるのかもしれない)。それこそ作中の敵である自動戦闘機械「レギオン」などと違って、暴走できる主人公=自らの力で立ち、歩き出す主人公は、これを生み出せただけで勝利である。
結論、ぜひこの先を、アニメ第二期として映像化してもらいたい。第4巻からがシンとレーナの二人の戦いの、真の檜舞台である。
注文をつけるならば、第一期の制作陣に、もっとぶっ飛んだ発想を加えてほしい。石井俊匡監督と脚本の大野敏哉氏は、どうもかなり実直なタチのように見受けられる。
原作の映像化という意味では、対原作比で出来栄え点90%-105%の間で推移したという印象だ。かなり良いとはいえる。映像化ゆえに必要なスパイスを加えてはいる。しかし、映像化ゆえに必要なエッセンスの追加投入や基幹パーツの置換という、核心に手を入れてなお作品の本質を失わず、映像作品としての正解を得るほどの鍛練にまでは至らなかった。
後日2022年冬期のアニメ作品を中心にレビューするが、その中で触れることになる脚本家・吉田玲子などは、ここで大鉈を振るう座った肝と、先を見通す眼力がある。
ここまでは期待しないが、いずれにせよ第二期はぜひ展開してほしい作品である。
6.補遺
本当は、この作品にどうしても強く感じる、同じ世代としての世代感もあるのだが、それは回を改めてにしたい。その前に、我が同世代の気鋭の作家たちについて、もう少し知るようにしてから考えたい。
同志少女よ敵を撃て
逢坂冬馬
塞王の盾
今村翔吾