第一期3か月分が終了し、期待通り、どころか期待以上に、どんどんアクセルふかしている。
1.概要
以前も書いたが、前期=4月放映開始作品で、2期連続、合計半年にわたって放映される予定のこの作品。
前半3か月が終わったが、素晴らしいの一言。
和歌山県の紀淡海峡に浮かぶ小さな島「日都ヶ島」(友ヶ島がモデル)に古くから存在する「影の病」(自分と同じ姿をした「影」殺され、存在を乗っ取られる)の元凶と戦うためにタイムリープ能力を与えられた主人公の、謎の敵との熾烈な攻防を描く、スリラー作品。
高度な知能を持った敵との戦いという点で、いわゆるゾンビものとは一線を画する。作品の呼び起こすセンス・オブ・ワンダーとしては、原作者の師匠にあたる荒木飛呂彦のジョジョ第4部「ダイヤモンドは砕けない」や、小野不由美の小説「屍鬼」などに近い。
2.何がええって、紀州弁や
本作品は、原作者が和歌山出身ということもあり、その舞台設定が作品に大きな意味を与えている。
紀州弁には専門の方言監修が入っている。
紀州弁は、「~でよぉ」など、近江の方言にもあるような、近畿地方の田舎の方ののんびりした響きがある。
「~したってくれ」が「~しちゃってくれ」となるように、京都・滋賀などとは異なった独特の語形変化があり、当地の雰囲気をよく表している。また、和歌山の方ではどうも、摂津や北河内では「せぇへん」やったり、京都滋賀では「しぃひん」やったりする言い回しが「しやん」という、大阪南部以南(?)によくある表現に置き換わるようで、これもしばしば登場する表現である。
(ほかにも、「ある」と「おる」の用法が逆だったり、「ゆうれい」が「ゆうれん」になるなどいろいろあるらしいが、詳しくは知らん)
演者も、和歌山出身の声優その他関西出身者が多い。非関西弁話者も多いが、彼らも相当頑張っていると思う。
主人公の慎平の心の中での独白は共通語、会話は紀州弁と、激しく行き来する演出だ。
心の中に死んだ弟の人格を宿す作家・南雲龍之介も、姉・ひづるの人格と弟・龍之介の人格で共通語と紀州弁を行き来する。
影の病について多くの秘密を知る菱形朱鷺子は、外向けの声は共通語、本心や感情は和歌山弁と、複雑に往還する。
本作の主役級で、唯一地元和歌山出身の白砂沙帆が演じる澪と、その姉で影に殺されたヒロイン潮は、全編和歌山弁だ。
共通語と和歌山弁の往還は、感情と理性、外面と本心といった人間の各側面を表現する際に用いられる演出で、非常に細かい*1。
これは、「オリジナルと影」という陰陽の対比、さらにはオリジナルの本人が気づかない負の感情を影が体現するなどといった側面とも連動している。
その中にあって、ヒロイン・潮は、唯一自らの影と共闘し、影の病に立ち向かおうとしていた存在だ。彼女の影、「影潮」には負の感情が見られず、ただただ慎平や澪たちが生きることを願っている。影としてはイレギュラーな存在だ。
彼女の天真爛漫さと裏表のない人間性があるからこそ、こうしたイレギュラーな影となったと説明できるかもしれない。
このように、本作品は「紀州弁」一つとっても、それを演出上必要な道具としてきちんと活用している。ただ単に「聖地巡礼喚起のため」に和歌山を舞台にしました、とはワケが違う。その舞台設定、その文化風俗に意味がある。
3.舞台の臨場感、レンダリング
「サマータイムレンダ」のレンダは、「レンダリング」のことだ。海外配信の際の本作のタイトルは、"Summertime Rendering"である。
この作品の、通常のご当地アニメを超えた凄さは、その土地の温度、湿度、匂い、空気感まで、まさにレンダリングしたようにアニメーションに投影していることだ。
ヒロイン、潮の葬儀のために東京から帰って来た幼馴染の慎平は、自分の部屋に戻って初めて潮の死を実感する。その際の心象表現の一つとして用いられるのが、エアコンの結露だ。
心の涙を表す方法はほかにいくらでもあるだろう。しかし、この地の空気感の中でそれを表すのには、エアコンが結露するほどの充満した湿気、高温というが最適だったということだろう。こうした一つ一つの描写が、その地の匂いまで写し取ったように視聴者に伝えてくれる。
こうしたひとつずつのシーンが、まさに「ある夏のレンダリング」として画面に立ち上がってくる。
「影」たちは、オリジナルの人の光情報をスキャンし、立体を再構築して、本物に成りすます。まさにレンダリングだ。慎平には、無限にありうる並行世界の中で、自らがその目で観測し実体験した世界を、体験し続ける限り真実の世界線として確定する能力(難しい)を誰かから与えられている(これは第2シーズンに入る前後で開示される情報)。
視覚情報をスキャンし再構築する。それによって出来上がったものの真贋は、見分けがつくのか?そもそも真贋を区別する意味はあるのか?
こうした外形情報や記憶(影は記憶もスキャンする)だけが、人の存在のすべてなのか?そこまですべて同じでもなお、「心」に違いはありうるのか?これが、この作品が通奏低音として持ち、問い続けているテーマであると思われる。
こうしたテーマ性を持った作品ゆえに、その舞台、人物を、温度や湿度、匂いまですべて写し取ろうという、作り手の動機づけになっているのだろう。
4.最後に
本作は、作品に確固としたテーマがあり、それに基づいて映像表現や芝居の演出をコントロールして制作している、非常に意欲で完成度の高い作品だ。
スタジオも、老舗のOLM, Incで、監督は「恋は雨上がりのように」など出色の演出の先行作品を持つ渡辺歩。脚本は「呪術廻戦」や「進撃の巨人」の脚本を担当する瀬古浩司。
先行作品から見ても間違いなく実力に申し分のないメンバーだ。
役者も、慣れぬ紀州弁に苦労しているようなところも見受けられるが、実力者がそろっている。特に驚いたのは、物語の黒幕ともいうべき小早川しおりを演じる釘宮理恵で、大阪出身だけあって見事にテンポの良い紀州弁を繰り出す。
物語は現在後半に入り、より多くの秘密が暴かれ、闘いはますます苛烈になってきた。
最近は珍しくなってきた連続2期、合計半年間にわたるマラソンだが、作画もきれいなまま推移している。
このまま、クライマックスまで、慎平が潮と再び出会える「いま」まで、走り抜けてほしい。
*1:そこら辺の、ただ関西が舞台なだけの、ロクな方言指導もせずにOKテイクを出すがために、聞くに堪えない関西弁まがいのなにかでセリフを吐いている低劣なドラマとは、演出に入れる力の度合いが全く違う。