1.松前町営牧場
途中町営牧場があったが、ここもまた発電が行われていた。
2.松前藩屋敷
松前の町内、市街地は、北海道では他についぞみられないほど、狭い路地が多い。
本州の古い土地をよく見てきた身からすると、懐かしいものである。
松前藩屋敷は、昔の建物を再現した屋外展示型の博物館である。
津軽弘前でも、また盛岡でも見たが、やはりというべきか、北前航路を牛耳っていたのは近江商人である。
マルハニチロの前身の日魯(函館)も、近江商人の家系であり。西武グループの親戚筋という。
ニシンの乱獲が続いたことで、ニシンの群来(くき)という大量に押し寄せる現象はここ数十年ずっと途絶えていた。
昨年、江差沖で戦後初めて観測されたとニュースになった。
海の温度上昇も関係しているらしいが、ニシンなど水産資源の量が回復するのには非常に時間がかかることがわかる。
松前は松前、江差、函館三湊の中心であったが、江戸末期の人口6000人、商家の数もさほどは多くないことがわかる。
この程度の規模で、北海道全域に一方的な専制体制を敷いたという見立てには、無理があるように思う。アイヌの支配層と松前、さらには場所請負人であった和人商人らがどういう関係にあり、アイヌ支配層による労働者(つまり部族の民)の動員力がそこにどう関係していたのかなど、考える必要があろう。
3.松前城
続いて松前城である。
石高の割に異例の規模の弘前城、堅牢な高石垣の盛岡城などと比較すべきではないのかもしれないが、城郭、城域が非常に曖昧である。防御性の高い石垣とは思えない。以下の写真の通り天守も、基礎の石垣が低く、簡単に登られるのではないか。
近江商人の解説がされていたが、具体的な出身地まで言及されていたのが珍しい。
五箇荘や日野、豊郷、八日市などが、近江商人の本拠地として有名だが、松前に進出したのは「薩摩」「柳川」という、九州の地名かと間違うような小地名の地域である。
滋賀県に10年以上住んで、土地や地域に関係する仕事をしていたが、こんな小地名は知らなかった。現在の彦根市の南部、愛知川の北岸の、湖岸の村落らしい。
Google Mapで調べると、古い立派な寺や神社がある。
井上靖「星の祭り」などで出てきそうな、近江の観音を奉じているのかもしれない。
港湾の城郭というのは、後背地の標高が上がることが多く、背面からの攻撃に弱いと思われる。近江の大津城が、関ヶ原の合戦時に簡単に落城したことからもわかる。
松前城の縄張り図を見ても、背後(北側、陸地側)の寺町の方面の堀がいい加減で、防備がガラ空きに見える。
海からの攻撃のみを考えていたのだろうか?
北西岸から上陸され、陸地から攻撃されたらどうなってしまうのか?
松前城は江戸末期にロシアの南下に備えて築城されたとされるが、築城を指南した軍学者は、函館に本拠を移して、函館での築城を推奨したらしい。
しかし、松前氏がこの街にこだわり、従前の陣屋同然の本拠地を城に改修したという。
おそらく、専門家の目から見れば望ましい城築ではなかったのだろう。
実際に、城内を歩いても縄張りが曖昧で、どこからどこが曲輪なのかよくわからない。
おもちゃのような城であった。
見ての通り、天守台が低すぎる。
寄せ手が直接天守を狙うのも容易だろうし、そもそもこの位置なら天守を作る意味があるのか疑問である。
4.松前郷土資料館
最後に、松前郷土資料館(廃校の校舎を利用した施設)に行った。
おそらく漁場の村落では、という意味と思われるが、アイヌは激しく放逐されていったようである。
蘭越や小樽などの地域で、アイヌが数人のみとなったということは海岸沿いの漁労を行うアイヌの村は壊滅させられたのだろう。戦国期を経て、「和の国」の地域では、築城、戦争(兵站)などにより大規模な動員技術が進歩したと思われる。
そうした力づくの生産力で、例えばアイヌが持たなかったとされる海水からの製塩などを持ち込んだら、アイヌの村落はひとたまりもなかったのだろう。
シャクシャインの戦いの頃には、余市には大きなアイヌの集落があったと記憶しているが、この頃にはどうなっていたのだろうか?
また、沿岸のコタンが壊滅させられたとして、内陸のコタンはどうなっていたのだろうか?
サケマス漁が中心であったことも考えると、内陸でどれほどの人口規模のコタンを維持できたのかも、気になる点である。
確か、ゴールデンカムイのヒロイン、アシリパのコタンは、小樽から内陸に入った地域だったはずである。
こうした著しい搾取が行われていたことが、奇しくも道南の和人地の資料館で、一番よく解説されていた。
小樽や平取には、こうした展示は見られなかった。
売り価格については、和人は松前城かの市場価格なのに対して、アイヌに対するそれは釧路のものである。
釧路というさらに遠方であることによる輸送コストがどれだけ反映されていて、同じ地域で比べた場合の実勢の格差がどれくらいだったのかも気になる点である。
先述したが、場所請負制により和人の豪商などに交易を支配させていたとはいえ、松前城下とて本州、弘前などと比べてもはるかに規模が小さい。
別の記事でも述べたが、松前氏とその与力の者たちは、所詮は武器を持った商人という程度のものである。
それが、なぜここまでの専制支配ができたのか。
彼らがアイヌの支配者層とどのような関係にあったのか、アイヌの支配者層がどういった立ち位置だったのかは、議論の前提として重要なように思う。
幕末のクナシリ・メナシの戦いの発端は、釧路の場所のアイヌの労働者の一斉不審死に端を発する、暴動であったとされる。
つまり、事件の発端は劣悪な労働環境におかれた労働者であったということである。アイヌの指導者に率いられた闘争ではない。
さらに、「夷酋列像」*1に描かれる、松前と協力して騒擾を鎮圧したとされるアイヌの支配者層の中には、まさに事件の起こった地域の酋長も含まれる。
つまり、酋長は擾乱を望んでおらず、自らの被支配民に反乱を思いとどまるよう説得し、鎮圧に加担してもいるのである。
クナシリ・メナシの戦いの話から我々が考えるべきは、その騒乱が和人とアイヌという民族の分断線に基づく差別であったと同時に、支配者(ここにアイヌの酋長クラスがどう関わっていたのか、という点は非常に重要である)と被支配者の間の搾取の問題という、似ているようだが少し違う分断線もあったのではないか、という点である。
民族紛争として単純化することも、また当然であるが民族紛争ではなかったとして事実すらも否定するような愚行も許さない、厳然とした客観的真実の究明の姿勢が強く求められる。
こうした複雑な分断と差別、搾取の実相を慎重に読み解いていく必要があろう。