1シーズン除雪に使われたブルドーザーの「戦い終えた」感がある。
構図としては、もう一つの案も提示する。
近景側の重心バランスを引き上げたのがこちら。
個人的には、手前の泥まみれの残雪がフレームインしているこちらの方が、ブルが働いてきた過酷さがわかっていいような気が。
構図は、考えれば考えるほど難しく、正解がない。
1シーズン除雪に使われたブルドーザーの「戦い終えた」感がある。
構図としては、もう一つの案も提示する。
近景側の重心バランスを引き上げたのがこちら。
個人的には、手前の泥まみれの残雪がフレームインしているこちらの方が、ブルが働いてきた過酷さがわかっていいような気が。
構図は、考えれば考えるほど難しく、正解がない。
1.概要
タイトルの「ブルーピリオド」は、画家パブロ・ピカソが若かりし頃に創作活動の苦悩を抱えた、青を基調とした写実的な暗いタッチの絵を描いた時期、いわゆる「青の時代」から採られている。
東京芸術大学を目指す受験生たちの、主人公の合格までを描く生々しい苦闘のストーリー。原作では合格後の芸大での創作活動のストーリーが続くが、アニメ化は試験合格までだ。
この作品がすごいのは、もともとかなりニッチな受験モノというテーマ(それも代表作が東京大学物語やドラゴン桜などのようにゲテモノ、クセモノで、真正面から作品として高評価を与ええない)でありながら、さらにその中心にはたかだか「お勉強」などではなく「芸術」と「創作」を据えたこと、さらに創作の恐ろしさと血を吐くような苦闘を極めて生々しく描き切ったことだ。
東京芸術大学の油画専攻は、毎年現役生は1人2人しか受からないという超難関で、合格率40倍以上という。しかも審査されるのは、己の絵画。善し悪しの、何を目標に腕を磨くのが正解かの、基準がない。
これを見せつけられると、難関医学部受験で落ちたり、合格率2.8%の国家資格試験(ちなみにこれも「合格率40倍」くらいである)に合格したりしてきた筆者も、私がやってきた受験勉強など所詮は知れた努力であると思わせられる。
1.アニメーション技術面 45 / 60
1)キャラクター造形(造形の独自性・キャラ間の描き分け) 8 / 10
2)作り込みの精緻さ(髪の毛、目の虹彩、陰影など) 7 / 10
3)表情のつけやすさ 7.5 / 10
4)人物作画の安定性 7 / 10
5)背景作画の精緻さ 7.5 / 10
6)色彩 8 / 10
2.演出・演技 158.5 / 170
声優
1)せりふ回し・テンポ 7.5 / 10
2)主役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 7.5 / 10
3)脇役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 8 / 10
映像
4)意義(寓意性やスリル)のある表現・コマ割り8.5 / 10
5)カメラアングル・画角・ボケ・カメラワーク8.5 / 10
6)人物表情 8.5 / 10
7)オープニング映像 10 / 10
8)エンディング映像 10 / 10
音楽
9)オープニング音楽
作品世界観と調和的か 10 / 10
メロディ 10 / 10
サウンド(ヴォーカル含む) 10 / 10
10)エンディング音楽
作品世界観と調和的か 10 / 10
メロディ 10 / 10
サウンド(ヴォーカル含む) 10 / 10
11)劇中曲
作品世界観と調和的か 10 / 10
メロディ 10 / 10
サウンド(ヴォーカル含む) 10 / 10
3.ストーリー構成面 70 / 70
1)全体のストーリー進捗のバランス(エポックの配置等のバランス) 10 / 10
2)時間軸のコントロール 10 / 10
3)ストーリーのテンションの保ち方のうまさ(ストーリーラインの本数等の工夫等)10 / 10
4)語り口や掛け合いによるテンポの良さの工夫10 / 10
5)各話脚本(起承転結、引き、つなぎ) 10 / 10
6)全体のコンセプトの明確性 10 / 10
7)各話エピソードと全体構造の相互作用 10 / 10
総合評価 273.5 / 300 = 0.91166666 ≒ 91%
総合得点91%以上、Sランク。
2.時間軸の使い方
この作品のキモは、何をおいても原作、脚本双方の時間調整のうまさである。
上記の通り、脚本分野はフルスコアとなった。
ポイントは、ディエーゲーシスとミメーシスである。
主人公の八虎が絵画に目覚め絵を描き始める高校2年生の半年以上の期間は、1話、2話で一気に駆け抜ける。
エポックといえるエピソードだけをぶつ切りでテンポよく置いていく手法は、「ダイジェスト」あるいは文学理論で使われるギリシャ語を使えば「ディエーゲーシス」である。
主人公が3年生になり美術予備校に入って創作をめぐる葛藤を抱える4月から12月までのほとんどは5話、6話。これもかなり大胆にダイジェストしているが、物語が進むごとに、時間の密度が徐々に大きく、細密描写(ミミックの語源である「ミメ-シス」)になっていく。
そして全12話中の後半、第7話以降は、芸大受験である。
第7話で芸大一次試験のデッサン(芸大はセンターの後の「二次試験」がさらに一次のデッサン、二次の油画に分かれるらしい)
第8話から10話ででは一次と二次の間の創作をめぐる主人公のさらなる成長のエピソード。
そして11話、12話で最終試験、二次試験に臨む。
話数前半は、数か月を一話で駆け抜けるスピード感だが、後半は、濃密な一日を一話丸々かけて、さらには2話に分けてまで描く。
原作は未読だが、この時間軸の設計図の大枠は原作から譲られたものであるようだ。
それにしても、わずか12話のアニメに、原作マンガ6巻分を押し込むのだから、通常は全体がただの駆け足=ダイジェストになってしまって、「何かを言っているようで何を言っているのかわからない」作品になりがちだ。
しかし、本作品はアニメ化の落とし込みに際しても、見事に、戦略的に「ディエーゲーシス」と「ミメーシス」のタクトさばきを見せ、見る者を飽きさせず納得させることに成功した。
この魔術のごとき指揮棒を振るった脚本家は誰か?
吉田玲子である。
彼女は現在のアニメーション作品の脚本家の中でも、間違いなくトップオブトップの実力者だが、数ある彼女の凄さのうち、最もそれを特徴づけると思われる力を、本作品でも発揮した。
作品の時間軸を操る力である。
京都アニメーション作品「けいおん!」シリーズで、監督山田尚子とのタッグでムーブメントを巻き起こした。
思えば、この作品からして、彼女が見せた異能は、この「時間軸の操り方」であった。
どこでディエーゲーシスを用い、どこでミメーシスに持ち込むのか。これを使う物語上の必要性、バランスの限界点などがすべて見えているのだろう。
「けいおん!」では、高校1年生、2年生の2年間を、第一期の13話で一気に描いた。第二期「けいおん!!」では、高校3年生の1年間を、25話(だったと思う)をかけて描いた。第一期の4倍の濃さといえる。
単純に時間を自在に割り振るというのではなく、なぜそこはディエーゲーシスでなければならないのか、なぜこちらはミメーシスなのか、という根拠・理由・必然性がある。
作品テーマの核心に近づくほどに、時間の密度が指数関数的に上昇するのである。
3.吉田玲子の他作品(詳細後日)
つい先日放映が終わった作品で、吉田が脚本、山田尚子が監督を担ったものがある。「平家物語」だ。
ご案内の通り、12巻ある大作軍記ものを、わずか1話24分×12話のアニメ作品に落とし込んだ。
これに関しては、極めて複雑に、かつ精緻にディエーゲーシスとミメーシスのタクトを振っている。
詳述は後日とするが、軍記ものの花形である戦闘描写は、大胆にもディエーゲーシスで、牛尾憲輔(「聲の形」でも参加)の現代的なビートの強いサウンドトラックに乗せて描かれるのみだ。驚くべき采配というしかない。
重盛や徳子などの「平家物語の上では」良識があったとされる人々の不安、平家第1巻屈指のエピソードといえる「祇王」のみぐしおろしのエピソードは、極めて丁寧に扱われる。
清盛が権勢をほしいままにする第1部だけで物語の半分以上を使い、義仲が主人公となる平家物語第2部、義経が中心の第3部は、どんどんとディエーゲーシスで畳みかける。
この滅亡に到るシークエンスを描く「取り急ぎの事実の羅列」のような「身も蓋もなさ」によってこそ、まさに盛者必衰の虚しさが描かれうることを、彼女らは十全に理解し、意識し、戦略的に使いこなしている。
旭日の勢いの中にあって不安を描くことは丁寧に、崩壊が始まれば一気に瓦解させる。
これほどの物語の運ばせ方は、常人では、仮に思いついてもな絶対にしえないだろう。
「平家」の幅広く奥行きのある物語のなかで、何を中心的価値として描くかを的確に選び、「原作物のアニメ化」でありながら、それを自らのものとして表現しきった。
「ブルーピリオド」において吉田が見せた芸当は、もしかしたら鼻歌交じりにやってのけたに過ぎないのかもしれない。
最近ようやく晴れるようになってきたが、忌々しいことに黄砂らしき粉末が飛んでいるようだ。
クルマのガラスが汚れる、目がかゆくなる、遠景が霞んでなんだか黄色っぽい。
今日は晴れの中でも珍しく、霞が少ない晴れの日になった。
毎度の如く一定期間に一度海を見ないと、特に太平洋などの暖かい海を見ないと精神的に変調をきたしかねない性分から、洞爺湖から豊浦まで巡ってきた。
白樺、湖、湖畔の町、雪の残る山
これだけ切り取れば、スイスといっても何となく通りそうですらある。
気温は7度から10度。日差しは暖かい。
河口の土手から、内浦湾とその先、湾の向かい側にある渡島半島の蝦夷駒ケ岳を撮った。
南から函館、森、八雲、長万部、豊浦、伊達、室蘭に到る町が連なるのが太平洋に口を開けた内浦湾で、古くから和人の交易船が入ってきていたようだ。
蝦夷駒ケ岳の存在感が大きく、好んでフレームインさせた。
流木は遠景の山から流れてきたのかもしれない。
綺麗な砂浜ではないが、夏は海水浴場とキャンプ場になるようだ。
まぁこういう構図もありかなと。
今回も85mmF1.8のみを使用した。
85mmは、切り取りたい部分だけを狭く切り取れると同時に、切り取り範囲が狭くなりすぎず、使い勝手もいい。
単焦点レンズは、だいたい24mm, 28mm, 35mm, 50mm, 85mmとラインナップされるが、今までのカメラマン・フォトグラファーたちの集合知から、こうした画角が使いやすい、というのが蓄積されてこうなってきたのだろう。
小説第1巻から第4巻を読んでの雑感。
先日テレビアニメ放映が終了したエイティシックスの原作で、電撃文庫から出ている小説の雑感。
大変失礼な言い方なのは重々承知の上で言うと、存外、非常にお見事!!
アニメ化されたのは、原作の第3巻まで。
共和国の戦場で死線をくぐり抜け、行き着いた先のギアーデ連邦でも望んで戦野に身を置いたウォー・ジャンキー、シン。
堕落と汚俗にまみれた末に滅亡した共和国にあって、ただ一人高潔かつ有能な軍人として、才幹のかぎりを尽くして戦線を支えきったレーナ。
二人の再会、真の意味での出会いを描くまでが、映像化された。
その先の、物語として初めて、本当の意味で対等な仲間として、「バディ」として軍事作戦を展開する(まさに満を持して)のが、第4巻。
1.意外だった点その一
第2巻、第3巻のギアーデ連邦編が、全てシンの物語として描かれていた点。
先日のアニメ版総評で述べた点だが、どうやら原作からして、レーナの物語はもともと言及されていない。
第 1巻の「二人の物語」という枠組みからするとややアンバランスなようにも見えるが、これはどうやら原作者自身自覚しているようで(あとがき)、彼女自身(原作者は女性である。私より一つ年上で同世代の。)でもかなりアンコントローラブルなほど、シンが作者を振り切ったようだ。
原作を読めば、シンが作者を振り切った、その熱量がよくわかる。
彼は、ここまで描かれねばならない存在である。
2.意外だった点その二
文章がしっかりしている。
いや、馬鹿にしてんのかって言われるかもしれないけど、これ重要。めっちゃくちゃ重要。
ライトノベルレーベルは、おそらくその出版ペースの速さから、一般文芸レーベル(角川なら電撃やスニーカーなどがラノベ、一般は角川文庫)に比べて圧倒的に校閲がズタボロに甘い印象がある。偏見かもしれないが。
しかしその中にあって、この作品は極めて文章がしっかりしていて危なげがない。
これは、校閲に頼らずとも、本人にしっかりとした文章力が備わっている証拠だと思われる。
正直、真山仁あたりの経済小説などよりも、よほどしっかりしているくらいである。(筆者の印象では、昔の山崎豊子などや最近の池井戸潤くらいの一部を除いて、「経済小説」は直木賞などのエンタメ小説分野では、一段ほど文章力含めて小説としてのレベルが低いと思っている。経済系の新聞記者など他分野からの参入が多い分野であることも影響しているか?)
本作の原作者安里アサトに関して言えば、修飾語のバリエーションが極めて多い(これ自体は彼女の膂力の大きさである)。修飾過多ではある。逆に言えば、これほど過多な装飾を文章として破綻させずに紡ぐことができるほどの、確固とした文章力があるということでもある。
おそらく今後この作家の文章が進化していくとすれば、過多な修飾を排してより洗練された文章にしていく方向かもしれない、と思わせる。そうなれば、エンタメ小説の枠を超えて、純文学系の「名文家」に化けるかもしれない。
3.雑感
全体の構成としては、森博嗣の「スカイ・クロラ」シリーズから文芸作品としての範を取り、川原礫「ソードアートオンライン」から娯楽作品としての骨格を受け継いだように思える。
どうしようもなく戦いの中にしか身を置けない人の、常人の理解を超えた心理を、しかし読み手に対して説得力を持って紡いでいく。前者の血を受け継いでいるように思える。完全な独断だが。文体に関しても、森博嗣は、空中戦のシーンではトランス状態のような、祈りのような文体でパイロット草薙に舵を打たせ、スロットルを開けさせた。この作品で原作者の安里の文章は、トランス状態の祈りではなく、ただただ切なる願いのように、シンやレーナの心の内を表現する。その請い願うような切なさの中に、韻文の名残を感じる。
第3巻の最後、シンとレーナの再会のシーンでは、二人の心の独白が地の文で交互に発せられる。まさに、ドストエフスキーに始まり20世紀に開花した、ポリフォニーの文学(ここでは二人のため、デュエットである)の萌芽がある。これがもし将来、スピアヘッド戦隊はじめ八六機動打撃群の面々、さらには意志を持つ無数のレギオンたちの声として展開すれば、阿鼻叫喚のシンフォニーとなるやも知れぬと妄想させる。
骨格としては、それぞれにバトルステージを転換して、各ステージで人間関係を発展させ、さらに登場人物が直面する壁を、成長を(第 1巻では生き残ることを、第2巻・第3巻では生きて得る未来のことを、第4巻では生きて得る未来で掴むべき希望のことを)描いていく。
ロールプレイングゲームのネイティブである世代には慣れ親しんだシリーズ展開のさせ方であり、これはまさにソードアートオンラインが駆使した手法でもある。
4.作品のテーマ性
やはり前回の私の分析は誤りではなかった、と確信した。
この作品のテーマは、ありきたりながら「対話」である。
言葉も感情も知能さえも持たないレギオン。
人を人とも扱わず豚呼ばわりする旧共和国市民。
その共和国市民を人語を発する白豚と切り捨て、彼らに対して、いや人類全てに対して諦めを抱くエイティシックスたち。
人は自らの思いを伝えられない絶望の中で対話を止める。
絶望の世界にあって唯一の希望が、パラレイドを通して声で互いを思い合い支え合ってきたシンとレーナだ。
翻って、やがて物語の進捗の中で知能を有し、人と対話する種が現れてくるであろうレギオン。
本来共存ができるはずなのに、対話を拒み共存し得ない人間同士。
共存し得ないはずなのに、対話をし合えてしまう人とレギオン。
こうした対照が描かれていくのかもしれない。
5.結論
これが作者の商業作品としてのデビュー作である。文章の質の高さや、それぞれのバトルステージで登場人物の何を描きたいのか、敵味方含めてどのような展開が用意されているのか、かなり周到に設計されている。盤石な構造計算があらかじめなされているがゆえに、書きながら途中で多少の設定変更やストーリーの方針変更があっても、それを受け入れ物語として発展させられる懐の深さもある。
第2巻・第3巻がシンの物語となったのも、エンタメの戦術論としては最善手ではなかっただろうが、物語全体がその「暴走」を受け止め、破綻させずに前に進めたのは、基本骨格の強靭さのなせる技だろう。
さらに言えば、暴走できるほどの主人公を描き出せたというのは、それだけでも作品として大成功である。以前も述べたが、ただ盤上で動く駒としての狭量なキャラクター性しか与えられず、皮相的なコミュニケーションに終始するようでは、通常はすぐに物語として息切れしてしまう(西尾維新がそれでも保たせられるのは、おそらく西尾維新の異能ともいうべき才覚によるのかもしれない)。それこそ作中の敵である自動戦闘機械「レギオン」などと違って、暴走できる主人公=自らの力で立ち、歩き出す主人公は、これを生み出せただけで勝利である。
結論、ぜひこの先を、アニメ第二期として映像化してもらいたい。第4巻からがシンとレーナの二人の戦いの、真の檜舞台である。
注文をつけるならば、第一期の制作陣に、もっとぶっ飛んだ発想を加えてほしい。石井俊匡監督と脚本の大野敏哉氏は、どうもかなり実直なタチのように見受けられる。
原作の映像化という意味では、対原作比で出来栄え点90%-105%の間で推移したという印象だ。かなり良いとはいえる。映像化ゆえに必要なスパイスを加えてはいる。しかし、映像化ゆえに必要なエッセンスの追加投入や基幹パーツの置換という、核心に手を入れてなお作品の本質を失わず、映像作品としての正解を得るほどの鍛練にまでは至らなかった。
後日2022年冬期のアニメ作品を中心にレビューするが、その中で触れることになる脚本家・吉田玲子などは、ここで大鉈を振るう座った肝と、先を見通す眼力がある。
ここまでは期待しないが、いずれにせよ第二期はぜひ展開してほしい作品である。
6.補遺
本当は、この作品にどうしても強く感じる、同じ世代としての世代感もあるのだが、それは回を改めてにしたい。その前に、我が同世代の気鋭の作家たちについて、もう少し知るようにしてから考えたい。
同志少女よ敵を撃て
逢坂冬馬
塞王の盾
今村翔吾
先々週になるか。
買い物で出たついでに遠回りして、山の東側の名水の湧く公園に行ってみた。
先々週はまだ雪が多く残っていた。
三脚もNDフィルターもない、カメラ一つだけ持って行ったので、雪のまぶしさがかなり厳しい。
本当は、もっとシャッターを長く開けて水の流れを表したかったところ。
不思議なもので、気温はまだ低いが、日差しは春のそれである。
温度的には、現在でもまだ最低気温はマイナス1度くらいまで下がっている。
最高気温も10度あれば温かいほうだ。
それでも春霞は出るし、日差しが温かいことは大津や京都と同じだ。
日差しはご覧の通り。
冬のような無窮の空、という感じではなくなってきた、ように思う。
さて、北海道の季節の移ろいはさるものとして、では近畿地方と北海道の間はどうなのか?
北海道ー近畿間の移動に飛行機を使うと、便利だがそうした移り変わりがわからない。一度、全行程鉄道での移動&岩手県での途中下車をしてみる。
東北新幹線も、14日には全面復旧の予定だ。GWには間に合う。
倶知安-長万部(函館本線、6時台前半の一本を逃すと12時半まで便がない)
盛岡-平泉(東北本線鈍行、12駅くらいある。岩手広い・・・)(一泊)
平泉-一ノ関(鈍行2駅)
一ノ関-仙台-東京(やまびこ=はやぶさ)
東京-京都(のぞみ)
丹波橋-樟葉(京阪)
うーん・・・
一応日本って、鉄道でつながっているのはすごいとは思う。
しかし、だ。
この長大な区間の最大の弱点が、のっけから、つまり倶知安-長万部というのはなんとも。
ちなみに、倶知安から特急北斗に乗れる駅に出る手段は、他に倶知安駅発伊達駅行きのバスしかない。これは1日に3本だけで、片道2時間半というマゾヒズムの極致を体感できる。
この状態で、この地域はなぜか新幹線ができる予定で、それに合わせて在来線は全廃が正式に決定した(バス転換)。
地域の人々は、ぼんやりと新幹線が来たら札幌へのアクセスもよくなると期待している。一面ではそうだろうが、果たして何時間に一本新幹線が止まるだろうか?
今でも在来線は2時間に1本だ。
新幹線が1時間に1本も止まってくれる保証はどこにもないし、むしろ止まらないだろう予想の方が十分容易に成り立つ。
まぁ、どうなることやら。
1.中望遠単焦点で
中望遠単焦点レンズ、85mmだけで撮ってみた。
画角が狭くなるほど、対象を細かく切り取れるため、より周辺情報が捨象され被写体を抽象化できる。
例えばこんな感じ。
いやしかし、曇り空の下だとやはり寒々しい・・・
右手の小島が白いのは名残雪ではない。
鳥どものクソである。
全くきれいな話ではない。
あのフライング畜生どもはしょせん鳥糞製造マシンである。
要らん情報だった。
小樽の鰊番屋のある丘を登ると、中腹から隣の小樽水族館の一部が見える。
トドどもが、スカ屁のような咆哮と爆音のようなゲップの中間のような、甲斐性のかけらもない声で鳴いている。
このアングルからのぞき見するのは、あたかも目隠しの設計をミスった露天風呂を覗き見しているようであるが、露天風呂を覗くほどの高揚感の欠片もない。小樽水族館の入場料払わずに見れてはいるんだけどね。
ちなみに実物の露天風呂を覗いたところで、期待するほどのものを拝めないであろうことは言を俟たない。普段温泉地に行ったときに、自分の周りで風呂に使っている人間の高齢化率を考えてみればよい。
馬鹿な妄想は失望の元である。
2.鰊番屋
鰊番屋は、鰊御殿とは違う小樽市の資料館である。
明治時代に泊村に建築された番屋を小樽に移築したものである。
2-2.横道に逸れて原発の話
泊村といば、北海道唯一の原発である泊原発が、ご丁寧に北朝鮮に的にして狙ってくださいとばかりに、夏祭りの射的の出店よろしく日本海に向けて陳列しているあの泊村である。北海道を人の顔とするならば、泊村のある積丹半島の付け根はさしずめ後頭部、頚椎のあたりか。当て身を食らわせれば落とせる位置である。
泊村の隣の神恵内村や多少離れた寿都町は、核のゴミの処分場候補地としての書類調査(処理場にする前の前の前の段階の調査、くらいか?)に名乗りを上げて、人口数百人などといった、存亡の危機にある自治体の首の皮を一枚繋ぐために、交付金を得んと必死である。当地の状況を近隣住民としてうすうす知っているがゆえに、やめてくれともいえない。というより、書類審査くらいで金が貰えるんやったらやってくれ、窮乏の焼け石に水ではあってもかけてくれ、というくらいの心持である。
ただ、泊村は原発が出来て以降多額の交付金の恩恵にあずかってきたはずである。
しかし、実際に事故が起きた時に被害を被る点では同じはずの近隣自治体には、そうした恩恵はなく、原発再稼働や存廃についても決定権がない。現状の原発政策の大きな問題点である。
2-3.話を戻すと
北前船と呼ばれる交易船が通っていたのは、18世紀中葉以降明治30年代まで、とのことである。
この交易路の特徴は、北海道から大阪までを結ぶ航路の途中、船が幾度も商品を交易し、積み替えては寄港して回ったということである。
北海道で昆布や鰊、鮭を積み、それの一部を北陸で酒などと換え、九州や中国では伊万里焼などを積み、大阪に入る、という具合である。
明治期には「効率的な」ニシン漁が開発され、大きな漁獲高で潤ったようである。
江戸末期の時点で、小樽や余市の生産力評価が、重量ベースのためいい加減とはいえ、石高換算で10万石以上、大名でいえば大大名クラスの封土と同じだけの地力があった地域である。泊村などもこのころは裕福であったのだろう。
話は変わるが、鰊が春に大量に押し寄せることを「群来(くき)」という。
昔は多くみられたがここ百年程見られておらず、しかし数年前から留萌、石狩、小樽と順に散見されるようになり、今年ついに道南江差でも百数年ぶりに観測されたと、つい先日ローカルニュースになった。
明治期に乱獲して生態系がズタズタになっていたのではないか。
百年たって、かつての鰊とは出自が違う(樺太近辺から流れてきたか?)とはいえ、ようやく従来の群落規模に回復してきた、ということか。
これはアイヌ語由来地名ではなく、ただ単純に、明治期に林を伐採してズンベラボウになってしまったため、毛無峠という身も蓋もない名前を賜った次第である。
伐採された木は、鰊油の精製などに使われた。
あちらこちらに、人間の乱獲・乱伐採の爪痕がある(今は「毛」のある山に戻っている)。
3.歴史の時間感覚
近代化以降、日本海側は日本の経済の主軸としての地位を失ったといわれる。
確かに貿易の相手としてアメリカが台頭し、太平洋側の開発が進んだという事情もあるだろう。
しかし、ニシン漁が残した環境破壊の爪痕を見るに、完全に均衡を失した乱開発で、自らの首を絞めたという側面も無視できまい。
北前交易の一方の起点である北海道で、出荷する産品自体が蒸発したように消えれば、交易路の維持ができなくなることは容易に想像できることである。
こうしたことをほとんど自覚することもなく、多くの日本海側の人々は、ただただ自らの住む地を「裏日本」と自嘲するのみである。
北前交易の歴史は、古いといってもせいぜい18世紀半ばから20世紀初頭である。
そして最も活況を呈し、空前の乱開発のフェーズに入ったのは、わずかに明治新政府の時代になって以降である。
北前交易について残された資料の多くはこの時代のものであり、時代の前半、さらには北前交易と呼ばれる前の時代については一層、資料が少ない。
現代のように情報の入手が平等に自由にできる時代になっても、所詮手にできるもの、不完全ながら甦らせ得る過去とは、ほんの少し前のもののみである。その過去とて、多くのピースを欠いた歪な像でしかなかろう。
過去は消せないなどとはよく言うが、客観的事実としてはそうであっても、主観としての過去は、容易に改変され、忘却・滅失されてしまう。
歴史の授業で年号を暗記させるのも結構だが(個人的には全く結構だとは思えないが一応一般論として)、むしろ過去とはこれほどにも脆い、確定性について何の保証もない事象であること、それゆえにいつだれが都合の良い改変を加えるかもしれない恐ろしいものであることをこそ伝えるべきではないか、と思う。
1.国家としての責任
ウクライナのことではない。
昨日、日本司法書士会連合会の司法書士総合研究所のweb会議にオブザーバーとして出席させていただいた。
相続制度、土地所有制度の国際比較を行いつつ、所有者不明土地の発生を防ぎ国土を荒廃から守るために、司法書士がより制度的に強い位置づけをされることを目指して研究活動を続けておられる。
具体的には、相続登記の義務化という今般の民法改正のさらに先を見据えて、司法書士専門職による相続手続きへの関与の拡大推進、それによる不動産その他の財産の散逸・荒廃を防ぐという制度の構築を提言するもので、非常に興味深く勉強させていただいた。
この議論の中で示唆を得たのが、「国家としての責任」という問題だ。
現在の日本では、不動産の所有権を一度取得してしまうと、それを「捨てる」ことができない。所有権放棄、という概念がないのである。
取得した不動産は、永久に持ち続ける義務がある。
本来、取得する自由があるのならば、手放す自由はセットで存在しなければならない。これは、日本国民法の重大な欠陥である。
ちなみに、総合研究所の方によると、フランスやドイツなどのラテン・ゲルマン法系諸国では、所有権の放棄が規定され、一定期間の権利不行使で以って放棄とみなされる「みなし放棄」に関するルールも存在するという。放棄された不動産は、国有財産となり、国が責任を持って管理する。
所有権放棄が存在しない日本。これは、国家の無責任の裏返しでもある。どういうことか。
例えば実務家としてよく相談を受ける話として、「自分にもしものことがあったら、土地財産は子供の負担になるので、自治体に寄付したい」というものがある。
回答は単純明快。「無理です。」
自治体も国も、不動産を受け取らないのである。ほとんどの場合、断固拒否。公共団体や政府は、土地建物を管理する責任とコストを嫌がるのである。
建物が老朽化して崩壊、失火した場合の周辺住民への責任。山林で土砂崩れが起こった場合の近隣所有者への補償。云々。
よほど街づくりに有用な駅前一等地などでもない限り、寄付を受けることはない。尤もそんな土地なら不動産屋が飛びつくので、自治体などお呼びでないのだが。
つまり、国や自治体は、国民が所有権を放棄して、その「お荷物」たる不動産を所有管理させられることのわずらわしさを、極度に、まったく病的といっていいほど忌み嫌うのである。
これを、不動産の所有権を放棄する自由を認めず国民にその管理責任を押し付け、国土を荒廃するに任せる国家の無責任と呼ばずしてなんと言おうか。
2.統治権と財産権
基本的に、ある国において当該国政府が公権力を行使する権限、すなわち統治権と、その国の土地を私有財産として所有して使用収益処分する権利、財産権は、厳格に峻別される。というか、まったく別次元の概念である。
所有権を持っていたとしても、その所有者が勝手に独立宣言をしてその国の中に別の施政権・統治権を確立することはできない。所有権とはあくまでその統治権力によって認められた財産権に過ぎない(本当は、法哲学的には自然法思想由来の考え方、法実証主義的考え方などがあるが、おおざっぱに言えば上記のようになる)。
統治権=政府は財産権者=所有者に、所有するうえでの様々な義務を課することができる。
例えば山林であれば水源の保全、農地であれば転用の制限などがわかりやすい。また、刑事事件があった場合には、令状があれば捜査機関がその土地に立ち入ることができるし、納税を懈怠すれば徴税機関はその土地を差し押さえられる。
土地を所有したからと言って、いきなり国家権力による立ち入りや徴税を拒否することはなしえないのである。こうした「荘園の不輸不入の権」を否定した上に成り立った制度こそが、「近代国家」という制度の本髄だからである。近代国家とは、不輸不入へのアンチテーゼである、と言っても過言ではない。
だから、よく言われるように、北海道の山林を中国資本が買い漁っているからそのうち北海道にミニ中国ができる、などというのは、以上の統治権と財産権の意義を理解しない人間の妄言であるとすらいえる。
そして、この統治権と財産権の関係を突き詰めた先にある、一考を要する事態が、まさに不動産所有権の放棄、という問題である。
3.「財産権の放棄」の近代国家における位置づけ
所有権とは財産権であるから、あくまでも私人に帰すべきものである。では、その所有権が放棄された場合をどう理解すべきか?無主物、つまり所有者なき物とするならば、誰も管理しないことになり得よう。
統治権と財産権を原理主義的に峻別して、統治権は民間の財産権には一切タッチしない、という姿勢であれば、政府が無主物をほったらかしにする、という理屈も導かれえないわけではない。
日本政府が制定し施行する日本国民法は、さらにそれ以前に、「所有権の放棄を認めない」(正確には、所有権の放棄を認める制度を用意しない)という不作為によって、民間の財産権への国家の関与を否定するのである。
(思うに、純理論的観点からいえば、所有権の放棄は認めてもそれを国家は取得・管理しない、という理屈ならば、まだわかる。所有権の取得と本来セットであるべき所有権の放棄は認めるのだから。しかし、所有権の放棄すらも認めないというのは、制度の欠缺、陥穽であるといわざるを得ない。取得できるならば放棄もできる。これは自由権の大前提であり、その一方(放棄)を用意しない制度というのは、ブレーキのないクルマと同じである。)
以上、放棄を認めない、というのはそもそもおかしいのである。それは一旦脇において、国が放擲された不動産を管理する義務があるか、という話に戻ろう。
統治権と財産権の峻別という観点からは、確かに国が放置された不動産を管理する義務を負わない、という帰結も導かれえよう。しかし、それは修正を要する原理、例外が求められるべき原則である。前述のように、仏独蘭伊西墺などの諸国においては所有権放棄が認められる(逆に、日本以外に放棄が認められない例が見つからないらしい)のは、上記原則が導く帰結への例外ともいえる。
これは、不動産というのは私有財産であると同時に、有限の「国土」に他ならない、という特殊事情が絡んでいる。
国土とは、国家としての成立要件「領土」「人民」「統治機構」の三要件の一つである。不動産は、私有財産であると同時に、国家の存在(=統治権の正統性)の根源でもあるという、二重性を持たざるを得ない特殊な代物なのである。
その国土の一部が放棄され誰の責任にも帰せられぬ状態は、領土の荒廃を招くことを意味し、とりもなおさず統治権の正統性に疑義を生ぜしめる事態でもある。
これを認識した通常の近代国家諸国は、私有財産としての不動産の所有権が放棄された場合に、その「財産権」を国家が取得して責任を持って管理処分する、という至極当然の、しかし統治権と財産権の関係という観点からはやや例外とも言いうるような、制度を設けているのである。
尤も、上記議論は不動産の財産権は「もともとは」誰のものか―初めに国家のものでありそれが国民に私有財産として分け与えられたのか、あるいは財産権としての不動産所有権は初めから私人に帰せられていたとするのか―という問題が前提にあり、今回はそれをすっ飛ばして検討していることはお含みおきいただきたい。
4.日本という「核」のない国
核兵器がない、という意味ではない。
いわゆる西洋的な意味での、核心になる価値観、コアヴァリューがない、という意味である。
日本国政府は、政府の根源的な役割、あるいは使命というものを恐ろしいほど理解していない組織である。
近代初期の最もプリミティヴな時期の議論から見ても、国家の使命として国民の安全の保障が挙げられる。いわゆる夜警国家論である。
しかし、アフガニスタンのタリバン再侵攻を見ればわかるように、いやもはや毎度恒例のことだが、沈没船から乗客を置いて逃げる船長よろしく紛争地帯から国民を置き去りにしていの一番に逃げ去るのは、日本政府在外公館である。JICA青年海外協力隊員であった友人など、最初からそのことに腹をくくっていたというし、JICAのプログラム経験者のコミュニティでは端っから「そういうもんだ」とすら思われているようである。泣けてくるというより目まいがしてくる話である。
日本政府には、国民の保護こそ政府の使命であるという最も近代国家としての原初的な使命すらない。戦後だけではない。皇国の皇軍を僭称した愚者たちは国民を天皇の赤子など呼ばわって勝手に人の命を湯水のごとく使い、犠牲にし、自らの汚い組織防衛に汲々としたのである。
本題である不動産所有権に対する国家の責任というものも、同じ文脈で見ることができるのではないか。日本国政府は、国土の維持と荒廃の防止という、国家としての使命を知らぬのではないか。
確かに、近代国家としての使命、核となる理念、という表現は極めて西洋的である。もしかしたら、核心となる理念・価値感から行動原理や具体的な政策に具体化していくという、西洋的な手法自体になじまないという可能性はある。日本には日本流の、フラットな価値観同士が相互影響を与え合っていく中で、一定の落としどころが見つかっていくというアプローチもあるのかもしれない。
そういう手法自体を否定するつもりはないが、近代国家というのは西洋謹製の、極めてよくまとまったパッケージであり、最上位に理念がありその下にそれに従った原理・政策・制度があるというメカニズムまで含めて一個のシステムなのである。そうしたピラミッドのような価値の体系の表面的なところだけ抑えたつもりで最上位概念の価値を共有しそこねているというのは、木に竹を接ぐというよりピラミッドのてっぺんを切り取って天守閣を築くような拙さである。
5.前近代の日本から見て
先日紹介した「荘園」という本などを見ていてもわかることがある。近代以前の日本における権力機構=暴力を背景とした支配権力は、土地に対してどのような権利を有していたのか?
どうやら、権力機構が有していたのは、単なる「果実収取権」に過ぎないようだ。
つまり、ある土地から生じる米等の作物の一定量(鎌倉後期以降金銭化される)を土地耕作者から収受する権利である。
(これが、見方によっては「税」でもあるといえる。私は、どちらかというと近代以前の権力は、武力を背景に持つ農業生産物の収取・流通の経営母体という側面が強いように思う。年貢は、税という側面もあろうが、同時に現場における下請け企業である農業生産者=百姓による成果物の「納品」という側面が強かったのではないか。そういった感覚がなければ、あるいは近代国家的な「税と所得」の感覚から見たら、税として農作物の5割以上を取られるという重税では社会に不満が充満し、早々に維持できなくなっていたはずである。)
そして、彼らが売買したり、将軍の命令で転封されたりするのは、あくまで地域の「果実収取権」であったのである。領地経営において、領土の荒廃は彼ら支配層の収益にも直結するから、新田開発などの経営努力はしていたのであろう。
しかし、そこに「国家の責任」としての領土の維持義務を、果たして観念していたであろうか?
経営的観点から領土の価値向上というのは、いわば不動産事業者がその物件に高付加価値をつけて収益を得ようとするのと同じインセンティブでしかない。他方、「国家としての責任」となると、自らの公共財としての役割を自覚して、利益の出ない土地までも含めて、その領域の秩序維持のために責任を持って管理する、という責任感が問われるのである。これが、果たして近代以前の日本の支配者たちにどの程度あったのだろうか?
6.欧州の歴史的文脈
欧州がどういう文脈にあったのか、最後に雑観しておこう。
キリスト教が国教となりシステムとしてのローマ帝国が大きく変質、実質的には滅亡した後、「神の物は神に、カエサルの物はカエサルに」(新約聖書マタイ伝)という言葉が、法体系に大きなインパクトを与える。
動産と不動産で、相続のメカニズムが全く異なったものとなったのである。
統治権と財産権が未分化であった中世においては、財産権としての不動産に対する権利は第一に領主のものであった。よって、その土地を耕していた領民、支配していた騎士、その上位の貴族、さらに王が死んだときの、土地の相続に関するルールは「カエサルの法」によることとなった。つまり、ローマ法やゲルマン法などの、世俗法が適用された。
他方、動産は神が現世に与えたもうたものであり、死して神の国に持ち込むことはできない。よって、死した者の動産は、神の地上における代理人である教会が預かる。
なんとも胡散臭い蓄財のための方便である。
以上の(屁)理屈から、動産の相続には教会法=カノニスティークが適用されることとなった。
つまり、動産と不動産を現前と峻別し、前者に対しては世俗の権力による取得管理についての強い志向性が、中世以降形成されていったとみることができる。
その中で、フランス革命が起こった。
この革命により、私有財産としての財産権と公権力としての統治権が峻別されるに至る。しかし、おそらく統治権力の領土秩序の維持に対する責任は、中世以来の文脈からも強く意識され続けたのではないか。わからんが。
こうして、私有財産たる土地が放棄された際には、公共財たる政府の責任において、領土秩序の荒廃を防ぐべく、国家がこれを管理処分する、という観念が、自然に生じえたのではないか。
7.おわりに
以上が、あくまでも無根拠な飲み屋談義的程度の、日本の不動産所有制度に関する重大な欠陥に関する考察であった。
おそらく日本人は、西洋的なシステムをまねることはあっても理解することはないであろう。それが悪いとは言わない。ただ単純に、そんなことをしても遠回りであろう、というだけである。きちんと西洋的な近代国家の理念・本質を理解し、自らが何をせねばならないかを「ピラミッド的な思考体系」に基づいて理解すれば、適切な制度の解は容易に見つかるはずである。しかしそれをせず、表面的な猿真似を続けるだけならば、最適解に至るまでにあてずっぽうのトライアルアンドエラーを繰り返さざるを得まい。
あとは、そのうわべだけの真似事から、どこまで実態を適切に処理できる解を、速やかに導けるかという運の問題である。
なんだか、このブログを書いていて初めて本職の専門家らしいところに少しだけ引っかかる話題に言及したような気がする・・・