手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

緊急寄稿:無関心の極北

 

1)経緯

今日、安倍晋三が銃殺されたらしい。

忙しく、当然ネットニュースを見る間も無く仕事をしていたので、詳細を知ったのは死亡した後の夜7時過ぎだった。

刑法上は、故意性・犯罪の構成要件該当性・違法性阻却事由の不存在・責任能力の全てを充足すれば、犯罪として成立する。

その点で、現行犯である本事案は、「責任阻却事由=責任能力の不存在」がない限り、有罪であるに違いなく、あとは量刑の問題のみとなる。

動機は、刑法上全く意味を持たない。

しかし、本件は刑事犯としての側面よりも、社会事象としての側面が遥かに大きい。構成要件該当性云々よりも、動機は社会的関心事となる。

まだほとんど全容は解らぬが、私がニュースに触れて2−3分で感じた第一印象を、新しいうちに備忘録としてまとめておく。

 

2)民主主義は冒涜するに値するか

早速、「民主主義の冒涜」などという、ロマン主義がかった非難声明が出されている。違うと思う。

この犯行は、民主主義に対する冒涜ですらない。

犯人(現行犯で自供もしているから、刑事手続上の「被疑者」と呼ぶ必要はないだろう)は、「安倍晋三に不満があり殺そうと思ってやった」「政治的信条に対する恨みではない」と述べている。

多くの記事の中から上記の趣旨のリードを見た瞬間、妙に納得した。

彼は、安倍の政治思想に対する攻撃を加えていないのである。不満の内容が彼の政治行動の帰結に対するものなのかどうかは不明だが、少なくとも時代がかったロマン主義者たちが垂涎する「思想犯」ではない。

ここからは現段階での想像だが、為政者としての安倍の行動に対する不満であったとしても、あくまでそれは「犯人と安倍の間の問題」に完結していたのではないか。そこだけ切り取れば、ただの怨恨殺人と全く同じ性質のものだったのではないか。

換言するならば、犯人にとっては、本事案はあくまで「社会的事件」ではなくただの「刑事犯」なのではないか。

つまり、犯人には、その事件を起こすことで社会にどのようなインパクトを与えるか、あるいは与えることができるか、といったことは眼中になかったのではないか。

そうだとすれば、犯人は民主主義を冒涜することにすら関心はなかったと言える。なぜならば、「彼と私の間の問題」を暴力的に解決しようとしただけであり、彼と私の間に存在するはずの社会を完全にまたぎこしているからである。

彼は民主主義を冒涜したのではなかろう。民主主義は、犯行の過程で注意の対象にすら入らなかったし、民主主義は冒涜されるにすら値しなかったのではないか。

 

3)無視された民主主義

安倍の政治家としての行動の帰結が、犯人の言う「不満」の原因である可能性はある。しかし、それに対するアンサーとして犯人が用意した暴力は、民主主義の有無と無関係であったと思われる。例えばそれが、江戸時代の苛政を敷いた悪代官に対する百姓のテロリズムであったとしても同じなのだろう。

民主主義は政治プロセスであり、政治行動の結果ではない。

犯人の意図は政治行動の結果か、あるいはもっと悪くすれば、政治家としてですらない安倍晋三個人への恨みなのかもしれない。そこに民主主義という政治プロセスに対する攻撃の指向性があるようには、私には一貫して感じられない。

彼は、彼の犯行が「民主主義への冒涜だ」などと言われることすら考えていないかもしれない。そこに、今の日本の「絶望的」ではない、「失望的」状況があるように思う。

 

4)空気のように当たり前にある、しかし不能に見えるメカニズム

民主党政権が、その初期に為替政策で過ちを犯し、軌道修正もままならぬままに起こった東日本大震災で、日本人は政治に、民主主義に失望した。

その失望の上に築かれた8−9年間が、安倍・菅政権だった。

日本人は、ポスト小泉政権民主党政権というたった一度の、それもたった数年の政治的フラストレーションで、民主主義を見放した。見限るという、積極的に放棄をする行動すらもすることなく、ただそこにあるままに見放し、放置した。

見放すという贅沢な行為は、民主主義が社会に制度として根付いて、暴力的侵食を受けることもなく存在し続ける幸運(能動的に勝ち取られる幸福ではない。ただ経済状況や地政学リスクその他の状況に恵まれただけの幸運である)に支えられた、ある意味でのラッキーな民主主義体制の盤石性があってこそ可能なものである。

多少揺さぶってもそこにあり続ける、当たり前すぎる存在。しかしそれが十全に機能せず、不能感をもたらすとき、人はひどく無関心になるものだ。

日本人が贅沢にも、民主主義を見放す真似をして、失望を気取っていられるのは、こうした恵まれすぎた不能感ゆえである。

戦前の日本であれば、昭和に入っても冷害による飢饉があれば、豊作による価格下落で豊作飢饉が起こったという。その度に田舎の娘は都会に売られ、子は人知れず間引かれ戸籍に載せられなかった。そうした切迫した社会状況は、現状に対する強い不満からくる暴力革命への憧憬を生む。軍部による犬養らへのテロリズムや、満州事変前後の日本政府の「防共」への異常な執念は、そうした「本当の貧しさ」を国内に抱えているが故の危機感や焦燥感のの愚かな表出でもあった。

翻って、安倍を殺した犯人はどうか。10年間鉄筋のアパートに住んでいたようである。独身であろう。革命プロセスを経て、社会を改変しようという意図すらあったようには思えない。あくまで推測だが。そもそも、先述のように、「社会」という存在に関心がなく、気づきもせず、無視して、安倍という「私に対する彼」を、「ごくごく個人的に」殺しに行っただけではないか。

 

5)安倍政権に至った過程

思えば、安倍晋三という首相は日本人の失望が負託された存在であった、といえば言い過ぎだろうか。リーマンショック前後の自民党政権に落胆し、政権交代が全てを変えるなどという安易で愚劣な考えに乗って勝手に失望し、無気力になって政治を「どうでもいいもの」にして行った国民の上に、十年一日の如く時を止めることのみを目的とした安倍が登壇した。

無理からぬことのように思うし、非難はできない。日本人は人口減少という、人類史あるいはエコシステムの動態上は極めて健全な、しかし資本主義という場当たり的なシステムを維持する上では極めて致命的な、目に見えぬ病魔に侵され30年以上を生きてきた。

徐々に圧迫する原因不明の閉塞感の中で、小泉のパフォーマンスに溜飲を下げ、政権交代に落胆し、果てに東日本大震災を経て、もうたくさんだと感じたというのが、国民の総体としての意志に、当たらずとも遠からずのものではないか。

その中で、「ちょっとタンマ。もういいから。」という意志の上に成り立ち、知ってか知らずかそれを反映したのが、安倍と菅の9年間だったように思う。

かくして、十年を一日のごとく時を止める政権が誕生した。

私は彼がアベノミクスと言い出した時から、彼の去った後の日本は何も残らない焼け野原になると思った。直感的に強く感じた。一貫して彼を支持しなかった。彼が去って後、事実そうなっている。

なんでもそうだが、経済政策とて明暗両面ある。

インフレターゲットをインフレ率上昇のために使おうなどという黒田の愚策には閉口せざるを得なかったが、円安誘導は観光産業を中心としたインバウンドの勃興をもたらした。これは、日本の基幹産業にするにはあまりにも脆弱ではあるが、間違いなく新しい産業分野の創出ではあった。

さらに、円安状況が生んだ日本の景況感の踊り場は、なんとか消費税を10%にすることを可能にもした。

しかし、円安は日本の多くの産業セクター、特に製造業に「無用に楽をさせ」、彼らのイノベーションをサボらせた。社会インフラの更新も、特にオンライン化を中心に大幅に遅れをとった。そして、コロナ禍を経て見えてきたのは、日本の今や後進性ともいうべき現状である。

さらに日銀が国債の50%を買い入れ、せっかくの消費増税でも財政の健全化など霧消するような、将来世代への借金が残った。

我々は十年を一日のごとく過ごすための代償として、未来を食い潰してきたのではないか?

これらは、安倍晋三の功罪ではない。単に、それを望み、あるいは追認した日本国民の功罪である。

安倍晋三の八年は、もういい加減に時を止めたかった日本人と、その期待に応え、代わりに悪魔との契約よろしくその代償に将来を差し出すという、彼が去ったのちにその全容が徐々に明らかになる「取引」によって成立した時間だったように思う。

人口減少という抗することができない「死」への圧力に苛まれ、30年のうちに二度ずつの経済の崩壊と大震災に襲われ、未来を取引の対価にしてでも今をとどめたいと願った日本の漠然とした意志に暗黙の付託を受けたのが、安倍晋三の政権であった。時を止めることを求めたが故にそれは、社会の根本的な変革を招くタイプの政権ではなかった。

 

6)冒涜するにすら値しない

「もうたくさん」という倦みの上に、「時を止める」ことを負託され、無関心による追認の上に成立したのが安倍晋三の政権であった。

彼が森友学園加計学園問題を起こそうが、桜を見る会問題を起こそうが、いい加減な国民投票法案を通そうが、集団的自衛権の屁理屈のような解釈変更をしようが、黒川を無理矢理検事総長に据えようが、いくら何をどうお手盛りでやっても、国民はどうでもいいものとして放っておいた。どうせどうにもできないし、政治について語るのとかダセーし。

こうした社会の状況に、先週のプライムニュースに出演した白井聡と先崎彰容、特に前者は強い危機感を述べておられた。

https://www.fnn.jp/articles/-/383617

政治プロセスへの著しい無関心の上に政治権力を行使する空間を得た安倍は、偶然か必然か、政治的プロセスに著しく無関心である輩に、「極めて政治的ではない動機で」殺されたと思われる。

因果応報というつもりはない。

それは故人に対して失礼な物言いである。

この犯行は愚劣な犯人の殺人衝動に発するものであり、安倍晋三の行為の必然的帰結でも何でもない。

しかし間違いなく、社会に政治プロセスへの失望と無関心は充溢していた。安倍政権は、自らを支えるためにそれを武器にし利用もしていた。彼の政権の経済金融を中心とした「時を止める」諸政策の、それが本質であった。

今回の犯行という一帰結は、政治に失望し、プロセスに関心を失い、放置して、気が向けば暴力で不満をぶつければいい、というあまりにも愚劣な犯人の登場は、政治プロセスの育成に堪え性がない国民と、その国民の三日坊主的無関心の上に居座った政権(これは仲間内の論理や小泉のパフォーマンスなどで乗り切り説明責任を放棄してきた自民党政権と稚拙な民主党政権、そしてその結果として時を止めた安倍政権の全ての共犯とも言える)の双方が醸成した悪弊に起因するのではないか。

繰り返すが、私は今回の犯行が思想性のないであろうこと、そして思想性を真っ先に犯人が否定していることに、非常に納得したし、極めて現代的だとも思った。

そこに、民主主義は冒涜されるにすらも値していないという、無関心の極北を見た。

しかし、いくら犯人が、国民が無関心の極北を決め込もうとも、そのこと自体が民主主義という政治プロセスを、そしてその先にある我が国の統治能力を、本当は存在せざるを得ないのにあえて皆が無視しようとする社会という「プロセス」を、穿ち、あるいは腐らせるであろう。

この事件は、我々が招いた結果である。

まだ止められるだろうか。もう遅いだろうか。

クルマについて考える

 

日産のノート

先日白馬まで行った際、富山空港に着いてからの移動はレンタカーだった。

車種は現行型のNISSAN NOTE e-power

www3.nissan.co.jp

普通ならば乗った車の写真でもアップするものだが、そうしたものはない。なぜか。写真を撮っていなからである。いちいちブログにアップするからなどと写真を撮ってまわる様なみっともない、俗物的な愚行は致さないのである。

というかただズボラでめんどくせぇのである。

 

ほんで、NISSAN NOTE e-powerである。

日産によると、モーター最大トルク280Nmくらいとのことで、2800ccNAクラスのトルクが出ることになっている、らしい。

確かに、ゼロ発進など街中での加速はリニアで走りやすい。

1.2トンの車に2.8リッター並みのトルクが出るパワーユニット(PU)を搭載するのだから、瞬発力は当然強い。

ところが、高速の合流加速になると、速いには速いのだが、街乗り発進加速や低速からの加速の時ほどではない。高速合流時や高速での追い越し加速では、加速の途中で息切れをする様な感じがあり、エンジンが

「ぁうぉおおおおおおおぇぇぇぇぇんんん。。。」

とすげぇ唸り方をする。

なんなんだろうなぁ、これ。

 

ハイブリッドの仕組みを調べる

日産のハイブリッドは、「シリーズ式」と言われるものだ。シャフトと直結しているのはモーターのみで、エンジンパワーはシャフトに伝わらない。エンジンはあくまで発電をするためだけ、発電して得たエネルギーでモーターを回し、バッテリーに蓄電し、その電気で再びモーターを回し、回ったモーターがシャフトを回す。

うーん、ややこし。

日産が「エンジン付き電気自動車」というマーケティング上の妙手とも苦し紛れの言い訳ともつかないキャッチコピーを標榜する所以である。

先ほどの高速の合流加速で「息切れ」のようになったのには、どうやらこのバッテリーとモーターの特性に理由があるとおもわれる。

ほんで、調べてみた。

まず、メーカーはよくカタログにモーターの出力を「〇〇kWh」などと載せているが、これだけでは実際の出力はわからない。

なぜか。

モーターに電力供給するバッテリーと、そこからモーターへの送電ユニット(パワーコントロールユニットと送電ケーブル)の能力により、モーターの出力は制約されるからだ。モーターが高性能でも、そこに供給される電気がちびっとなら、モーターはフルには力を発揮せぬわけだ。

ダムで言うなら、むっっちゃすごい水力発電タービンがあっても、ダムに供給できる水が少ししかない、あっても水道管が細く、かつ高低差が小さすぎてショボショボとしか水が流れていかない、とかやったら、タービンの力を無駄にするばかりである。

日産は、この肝心のバッテリー出力を公表しておらへん。しかし、現代の車載バッテリー能力がモーターの能力の限界値を上回ることはまずないため、制約を受けていることは間違いない。

で、さらに調べていくと、どうやらモーターそれ自体にも特性上限界があるらしいことがわかった。

トルク特性というやつである。

まず、エンジンのトルク特性の話をする。

エンジンは、回転数が低い状態ではトルクも弱く、一定回転数まで上がって最大トルクを発生、その後ピークアウトしていく。エンジン出力特性表などで出てくる折れ線だ。

他方、ハイブリッド車が出回り始めた当初からよく言われるのが「モーターは立ち上がりから最大出力が出る」という点である。

確かにそうで、ノートe-powerでも発進加速は非常に速い。

ところが、である。モーターというのは、回転数がゼロから一定回転まではフラットに最大トルクを出すも、一定回転以上になるとピークアウト、徐々に力が衰えていくらしい。

次の引用ページに、モーター出力特性表が載っている。

cardriving.site

おそらく、一定速度以上になると仕事率が高い状態=高回転状態なわけで、加速をすることでその高い回転数からさらに回転数を上げていくと、モーターのトルクピークを超えてしまう、てなことが起こっているんではないか。

こういう時に、モーターのみシャフト直結のシリーズ式ハイブリッドは弱いわけだ。

下のページに、各メーカーの出力計算の方法が載っている。

www.belmayze.jp

 

ほんなら、トヨタはどやねん

トヨタは、「シリーズ・パラレル式」という、外部の人間には完全にブラックボックスになった怪しげなハイブリッド方式を採用する。

どういうことかというと、

エンジンを回す→一部動力をシャフトに直接伝え、他方をモーター回すのに使う→モーターからもシャフトに電気エネルギーを伝える(モーター経由で伝導する力は、e-powerと同じ経路を辿る)

要するに、エンジンから一度、直接シャフトに伝えるパワーと、あえてモーターを経由して電気エネルギーとして伝えるパワーとに分割して、シャフトのところで生き別れの兄弟よろしく再開して力を合わせてタイヤを回す、的な、なんかそんな感じの見ようによっては感動的な再会を果たしているっぽい雰囲気である。

知らんけど。

このシステムのいいところは、モーターがピークアウトしてしまうような高回転局面で、エンジン動力が直接がシャフトに介入してアシストできることだ。

ホンダのe:HEV(この客に覚えさせる気のないネーミングなんとかならんのか)も、高速時にはエンジン動力がシャフトに伝わるため、トヨタと同じ様な方式である。

しかし、トヨタの従来型のハイブリッドには、エンジン側からの動力伝達に難があった。

エンジンとシャフトの間に、ギアが1段しかなかったのである。

ギア比0.7台の高速用ギアだったはずだ。

ということはどういうことかというと、エンジン動力がシャフトに伝わる際には、高速ギアの定トルクの伝達しかできず、低中速域での加速ではあまりアシストを得られないということだ。筆者が昔運転したことのあるトヨタSAIなどもそうだし、現行型のトヨタTHS-IIハイブリッドの多くもこのままのはずだ。

エンジン側の中低速域での非力さを解決するために生まれたのが、「THS-IIマルチステージハイブリッド」だ。これは、エンジンからシャフトに動力を伝える際にも、4段のギアを用意している。

以下、マルチステージの解説をしたページを引用する。

www.belmayze.jp

こうすれば、おそらく高速の合流や追い越し加速の時にも、かなりスムーズに行けるのではないか。

しかし当然のことながら、ギアボックスを余計に一台積むわけで、その分嵩張るのは間違いない。

おそらくマルチステージがトヨタレクサスの高級車にしか積まれていないのは、スペース的に小型化できないのもあるのだろう。

 

そもそもハイブリッドって

先述のトヨタSAIは、発進時にスロットルを開けても反応せず、数秒後に突然急発進する、エンジン回転だけが急上昇する、などの不可解な症状が出て、危なくて乗っていられない、となって手放した経緯がある。

プリウスミサイルと呼ばれる事故のいくばくかはこうした不具合が原因ではないかと、疑っている次第だ。

それ以来、ハイブリッドなるもの自体を、就中トヨタのハイブリッドを、あまり信用していない。いま私がスバルのレヴォーグ(VM4)に乗っているのも、理由の一つはそれだ。

しかし、である。

昨今の原油の高騰は、やはり再びハイブリッドを今後(といって5年後かそこらだろうが)購入の候補に入れていかざるを得ない状況を生み出している。

何せ、今年はじめ頃にはリッター130円台だったはずのガソリン(レギュラー)である

原油価格は、ロケットの様に急上昇して、羽の様にゆっくり落ちるというのが定説である。

それがロシアが侵略を開始してリッター170円台に急上昇だ。40%ほどの値上がりで、この上がり幅分は、ちょうどハイブリッド車の同クラスのガソリン車に対する燃費の向上幅と同じくらいなのである。

ノーマルの車と同クラスのハイブリッド車に切り替えて、ようやく燃料コストを従前と据置レベルまで吸収できる、といった具合だ。

さらにいえば、地球温暖化対策などで今後ハイブリッドシフトは一層加速する。自動車市場からハイブリッド以外の選択肢自体が消えていくだろう。

そんな中では、ハイブリッドは信用ならぬともいっておられない。希望的観測として、今から10年以上前の設計のハイブリッドであったSAIのころから、トヨタのシステム自体も飛躍的に進化している、であろうことを祈るばかりだ。

 

将来の車を考える

ハイブリッドが信頼性が向上しているかどうかはわからんが、選択肢がないならそれにかけるしかない。後は、様々なハイブリッド方式の長所短所を知っておくことだ。

今回ノートe-powerに乗って分かったのは、「シリーズ式は高速に弱い」、ということだ。

シリーズ・パラレル式のトヨタのSAIの方が、確かに高速での特性は良かったように思う。

そういう意味では、トヨタ・ホンダがそれぞれ販売している、シリーズ・パラレルが万能選手といえる。尤も、システムが複雑化しすぎてブラックボックス化している点が、先述の信頼性の面で不安であるが。

これは、ハイブリッド方式自体の得手不得手の問題もあるが、同時にバッテリーの定格出力や、電源供給するケーブルやパワーコントロールユニットの昇圧能力にもよる。さらに言えば、システム図を見ていても出てこないのだが、コンデンサなどを使って電気を溜め込んで、大電圧をガツンと送り込んで、ここ一番のブーストパワーを得るシステムなどはできないものだろうか?なんかスーパーロボットっぽくてかっこいいし(オイ)、やってみてはいかがか?

今後、バッテリーは全個体電池や、ナトリウム極・カリウム極などの非レアメタル系も登場すると思われる(ただし、原子番号が大きい=重量が重いNaやK極電池が車載用に適するかはわからん。当面は全個体電池化が急務だろう、安全性のためにも)。さらに昇圧システムやケーブルの能力も向上するだろう。そうすれば、ハイブリッドシステム自体もさらに性能向上が期待できる。

5−6年後、まともに欲しいと思えるハイブリッドがあればいいが。。。

 

2022春季アニメ終盤暫定寸評

 

1.Aクラス以上の候補

かぐや様は告らせたい

SPY×FAMILY

パリピ孔明

サマータイムレンダ

 

2.雑感

ジャンプ系の原作モノが強い。

「かぐや様」、「SPY」、「サマータイム」はいずれもジャンプ系レーベルだ。

「かぐや様」

「かぐや様」は、シリーズ三期目で、スタートから4年ほどを迎える。

毎回ラインの既読スルーやテーブルゲームなどのくだらないネタを使いながらも、よくもまぁあれだけ話を膨らませられるものだと感心するコメディで、スラップスティックではなくコントのようなネタ展開だ。このシリーズがここまで長く人気を保ち続けるのは、ネタ展開のうまさだけではなく、キャラクターの掘り込みの深さもある。皮相的なキャラと見せかけて、細かすぎる設定を背後に用意し、人物像を周到に設定している。一人一人が破綻なく動く一方で、意外な一面を違和感なく見せるところに、「キャラの絡み」だけで見せようとする昨今の作品を乗り越えた質の高さを感じさせる。

myanimelist.net

海外サイトだが、シリーズ三期目でむしろ人気評価ともに上昇するというのは、極めて異例だ。普通ならばシリーズを追うごとに視聴者が減っていくからだ。

ここに「かぐや様」シリーズの特異な強さがわかる。

パリピ孔明

パリピ孔明」は、異世界転生モノの亜種だが、転生するのが凡人ではなく諸葛亮という超人である。異世界転生モノと、Fateシリーズの英霊召喚モノのミックスか。諸葛孔明が司馬仲達との決戦を前にしながら死して、なぜか現代の渋谷に転生し、なぜかクラブハウスで歌う売れない歌手の才能にほれ込み彼女の「軍師(?)」となって音楽業界の天下泰平(??)を目指すという要約すると意味が不明な筋書きである。

着想はぶっ飛んでおり、他方ストーリーには破綻がなく、「売れない歌手のサクセスストーリー」というド定番(ハリウッドが大好きなヤツですな)として見やすい作品に仕上がっている。

最近のP.A.Works作品には、脚本展開に若干ムラ、というか弱点があるように思われる。本作はP.A.Worksにしては珍しい原作マンガのアニメ化のため一概には言えないが、中盤でラッパーのKABE太人の復活ストーリーに入って以降、テンポ感が悪くなった。また、中盤最も重要なシーンである、KABEが孔明に煽られてラップバトルに乗る(という状況が字面だけでは意味不明だが)くだりは、それまでかたくなにラップの舞台に戻ることを避けていた彼が、一シロウトである孔明に煽られただけで再び舞台に戻っていくというシークエンスに、やや弱さを覚える(尤も孔明はラップそのものをも愚弄するような言い方で煽ったわけだが)。おそらくKABEはラップをやめてから数年間、素人に煽られてもラップを避けてきたであろうに、なぜそこは素直に挑戦を受けたのか。もう一押しあってもよかったかもしれない。

SPY×FAMILY」

非常に一般受けしやすく、またそれを間違いなく狙った作品でもある。

鬼滅の刃」で走者一掃特大ホームランを打ち、「呪術廻戦」で2ランホームランとジャンプお得意のバトルもので立て続けに大ヒットさせた次は、ホームコメディ×スパイアクションという誰もが安心して見られるコンテンツで攻めてきた。

名うてのスパイ「黄昏」ことロイドが、対象に接近するために子供を利用すべく孤児を養子にし、さらに偽装結婚までして偽装=疑似家族をつくる。ところが、妻役のヨルは実は「茨姫」という暗殺者の裏の顔を偽装するという隠れた目的を持っており、さらに娘役のアーニャは国家の秘密研究機関に「人の心を読む」超能力を植え付けられたのち、脱走して孤児になったという隠された過去があった。そうして人には言えない秘密を抱えた三人は疑似家族を演じ、演じるうちに徐々に本当の「家族」になっていく・・・?

よくこんな無茶な設定考えたと思う。

spy-family.net

ヲタクが熱中するタイプの作品ではないが、コメディとして、ホームドラマとしてストーリーがしっかりと作りこまれており(あれスパイ要素どこ行った)、ストーリーテリングの設計はかっちりとレベルが高い。一方、テンポをよくするために割り切ったご都合主義設定を使う(ロイドが一瞬で変装するところとか)。しかし、それがかえって小気味よいのは、こうした展開を許容して見る作品ですよ、という作風の緩やかさが作り出す一定の「コード」があるからだろう。

とか何とか言ってみたが、詰まるところ、とにかくアーニャちゃんが面白かわいいので万事OK。そういう作品だ。アーニャはアニメ史に残る大正義だと思う。

サマータイムレンダ」

summertime-anime.com

今期個人的ナンバー1の可能性が高いのがこれだ。

和歌山県の「日都ヶ島」(実在の「友ヶ島」がモデル)を舞台にした、ミステリ・ホラーだ。古くからの言い伝えで、島特有の「影の病」が流行りはじめ、影に姿を写し撮られた者は死ぬ、というものがあった。主人公は幼馴染の水難事故死の後の葬儀のため東京から島に戻るが、死んだ幼馴染の死には他殺を疑う跡があった・・・

作品の引きと溜めの作り方といい、「影の病」と「タイムリープ」という設定といい、多くの要素を詰め込んでギチギチながらも破綻なくまとまっている。

作者は「ジョジョ」シリーズの荒木飛呂彦の弟子とのことだが、なるほど確かに全体の仕掛けやタイムリープ能力など、ジョジョ第四部の「ダイヤモンドは砕けない」シリーズを想起させるものもある。タイムリープ能力は吉良吉影の「バイツァ・ダスト」、物語のカギとなる作家南雲龍之介の活躍は「ダイヤモンド」の作家岸部露伴のそれに比定しうる。しかしこれらは、所詮は作品の小道具に過ぎない。

ジョジョシリーズと違った独自性の最たるものは、この作品世界の持つ「空気」だ。夏の和歌山、紀淡海峡に浮かぶ離れ小島の、むしむしとした湿気、強く照り付ける太陽。そして登場人物みなが話す和歌山弁。小説でもそうだが、においや湿度、光や温度、さらに風習や考え方などといった、舞台の世界観は見る者を引き付ける非常に重要な要素だ。この作品には、作者自身の出身地である和歌山の濃密な空気が描きこまれている。それを感じるだけでも値打ちがある。この世界観に包み込まれているからこそ成立するストーリーであり、その点で作品自体の組み立て方がジョジョと全く違うといっていい。

ヒロインの一人を演じる白砂沙帆は和歌山出身の新人のようで、本物の澪と「影」の澪をよく演じ分けているし、ネイティブならではのテンポの良い関西弁、とりわけのんびりとした和歌山弁をしゃべってくれる。

他にも花江夏樹ら東京出身のキャストも、拙さはあるものの、いい加減なテレビドラマなどよりよほど関西弁をきちんと演じ話しているのも好感が持てる。

この作品は中盤の山場まで視聴したが、今後の展開もこの質を維持してくれることを願う。

NIKON Z30が出るけれど

www.nikon-image.com

 

手振れ補正がついていない。

コンパクトで持ち運びしやすそうなんだが、手振れ補正ないのはキツイ。先日長野に行った際も、D7500は一眼レフゆえにボディ内手振れ補正がなかった。

一度Z6の5段分手振れ補正(手振れ補正業界ではこれでも控えめ)を使ってしまうと、手振れ補正なしがものすごく使いづらいと感じる。

 

京都花見小路の夕暮れ時、Z6

手振れ補正があると、シャッタースピードを遅くできる。

遅くすると、人が動いていく姿が躍動感をもって撮れる。

動体ブレだ。

こうすると、人が動くことで時間の流れを、動く人の家路(?)を急ぐような雰囲気を、さらに顔が写らないことで匿名化し、情報のコントロールもできる。

写真中に人物の顔が写ると、見る人の目はそこに吸い込まれる。人にとって、人の顔とはそれほどに「強い」情報ということだ。

その顔を匿名化できれば、人物そのものを一気に「風景の一部」に溶け込ませることができる。本来「顔」が持つ情報としての強度を弱めることが、動体ブレを駆使することでできるようになる。

その動体ブレを、三脚(花見小路など使用禁止の場所は多い)を使わずンできるようにするのが手振れ補正、分けても強力な、ボディ内手振れ補正(イメージセンサーをジャイロの中に浮かせて置き、カメラボディが動いてもセンサーが動かないようにする)だ。

祇園さんから、手振れが補正しきれていないが・・・Z6

動体ブレさせないと、人の情報がどうしても強くなる、D7500

Canonは、Z30やZ50と同じAPS-Cセンサーのミラーレス、R7に8段(!)という驚異の手振れ補正を載せる。

正直、手振れ補正自体ないという商品設計、今日日ちょっとないわなぁ・・・

Nikonさん、たのんまっせ

試写2022.06.25

 

1.小樽

小樽の本屋に行ったら日本海側は晴れでした。

毛無峠

霞んでるけど、街の方は結構カリカリに映ってますな。

AF-S NIKKOR 85mm F1.8Gで遠景に焦点を当ててみたら、あれ、こんなにカリカリだったっけか?というような感じに写った。

写りが硬いとは言われているが、たしかになかなか。

Zレンズのような高精細な「サラサラ」感ではなく、ちょっとカリカリした前世代的な写りなのかしらん。

 

2.喜久屋書店

www.wingbay-otaru.co.jp

行ってきたのは、いつものココ。

小樽に行くのはここに行く以外大抵用がない(失礼

ここは蔵書数はそこそこ(大津の一里山フォレオ大垣書店くらいか)で、言って目当ての本がある確率は5割くらい。

本のキュレーションもそれなりにできていて、札幌にいくつかある自称「書店」で半分以上文具売り場の北海道版無知の殿堂たるコーチャンフォーよりはずっといい。

 

3.お目当ての本

で、複数候補の中から最終的に手に取った2冊のうち一冊がこれ。

重っ(苦笑

見開きでさらさらっと読んでみたら、やはり上手い。文章がうまいだけでなく、情景描写や比喩の表現が怒涛の如く流れ込んでくる。中国文学の専門家だけあって、非常に繊細でしかし硬質でもある。

高橋文学を手にするのは「悲の器」以来二作目で、あの時も硬質、というか厳格な印象の文章と、極めて繊細な文学的比喩表現に驚いた。

邪宗門は、大学時代に憲法学の先生が講義で薦めていたのを聞いて以来、いずれ買おうと思ってはいたが、分厚いしなかなか順番が回ってこなかった。

最近は東山彰良などの現代の作家をいくつか読んではいたが、どうもややピンと来ていなかった(先日買ったマチダは別)。

そこにきて高橋の文章の見開き1ページ目を見たら、やはりこれだ、この稠密さ、端正さこそが言語のみによって時間と空間を作り出す技芸だ、と思わされる。

現代の作家が悪いと言っているのではない。

流行り廃りもあるのだろうが、辻邦夫や高橋和巳のような稠密さというか「圧倒的な比重の大きさ」を見せられると、こちらに魅入られる。現在存命の作家でいえば、円熟味が増してからの池澤夏樹マシアス・ギリの失脚)あたりは同じくらいのマッシヴさを感じるが。

こうした圧倒的なMassivenessを持った作家って、最近の若手中堅にはいるのだろうか?知らんけど。

 

次は見送った作品

 

高橋にするかエーコにするか迷ったが、エーコは見送りとなった。

問題は翻訳で、訳者河島英昭は以前マキアヴェッリ君主論が読むに堪えなかっただ。

同じ君主論でも、岩波の佐々木毅版でなければ読めない。

アマゾンでも、かなりイタリア文学やイタリア政治史に造詣の深い人が指摘しているようで、河島役は誤訳や文献理解のあ祭典が散見されるとされ、評価が低い。

エーコのように、ボルヘスナボコフ並みに膨大な教養に裏打ちされた仕掛けを無数に含むであろう作品ならば、こうした翻訳者の姿勢はなおさら致命的だ。

 

フーコーの振り子は以前読んだが、もう一つの代表作である「薔薇の名前」は、是非光文社古典新訳文庫などで、きちんとした翻訳者で再出版してほしい。

 

んでもって、もう一冊入手したのはこちら。

eighty six第6巻。

たぶん第二期アニメ化は難しいような気がする(ほかにもコンテンツが多すぎて製作費がまわってこない気が・・・)ので、とりあえず原作で読んじまうしかない。

映像化希望だがちょっと無理だろうという作品はほかにもある(後者は一部アニメ化済)。

 

 

 

どうも最近、文芸系は読むものがばらけているのに対して、論説系のものが歴史に偏りすぎていていかん。自然科学系などにもうちと寄せていきたいが・・・

 

85mm単焦点で撮った雲。結構硬い



 

北信越視察旅行で白馬へ

岩岳より望む白馬遠景

 

1.白馬到着

電車すくなっ

まぁ、倶知安駅といい勝負であるが、電化されているので白馬の勝ちである。

ここの路線もってるのはJR東日本である。

中部地方は長野県のこんな路線まで東に押し付けて、JR東海はせっせとドル箱の新幹線だけに勤しんでいる。

JR東海はもうちょっと負担すればどうか。

JR北海道丸ごとくれてやろうか。

 

2.岩岳リゾート

白馬では岩岳リゾートなどに足を運び、サマーシーズンのプロモーションを視察した。

 

岩岳頂上の和―ケーション用の施設

山頂は冷涼で過ごしやすい。

白馬村を一望でき、反対側には白馬三山がさらに高く聳える。

岩岳山頂には輪―ケーション用施設が充実していて、wifiが飛び、電源設備のあるテーブルなどが多く用意されている。

近くに喫茶店やレストランなどもある。

岩岳や栂池はスキー場が私有地(入会地)で、国有地等ではく国定公園などの自然公園に入っていない。

そのため、ニセコなどに比べて自由に様々な施設を作ることができる。

そこに多くの人を集めて、夏場の避暑を前面に押し出すのが、白馬の強みだ。

客は首都圏と名古屋を中心とした東海地方からが多い。

周辺人口が圧倒的に多い点も、北海道(札幌200万人強300万人弱の都市圏しかない)に比べると強い。

岩岳山頂

どうでもいいが、全てスマホ写真である。

iPhoneで撮った。

一見してきれいに見える。

なぜか。

まず、色を鮮やかにする処理が自動で施されている。

さらに、暗いところを明るく、明るいところを抑えるダイナミックレンジの処理もスマホがやっている。

それで、イイ感じに見えるようにしている。

一見してイイ感じなのだが、どうも何枚も見るとみあきるものでもある。

 

3.宿泊施設

岩岳近くの宿泊した古民家のある集落

集落には真ん中に水車があり、水路がめぐらされていた。

糸魚川に到る塩街道の街道筋の集落らしい。

塩街道は、日本海から信州へと塩を運んだ、上杉武田双方のロジスティクスを支えた生命線である。

集落その2

集落その3

奥にぼけているのは水路である。

古民家室内

古民家の中は大改装されていて、洋風のキッチンなどがある。

古民家室内2

広いのはいいのだが、暖房は石油が切れていて点かず、まだ寒い高原ではあまりよろしくないところも散見された。

オフシーズンで稼働させていなかった所に試泊のような形で泊ったからか。

しかし、こうしたもともとある古民家を宿泊施設にできるのは、北海道にはない魅力で、現地で体験してみると極めて強いコンテンツだとわかる。

 

4.青木湖、中綱湖、木崎湖

思いがけずよかったのは、この近くにある湖である。

青木湖

ベタ凪の小さな湖が三つあり、ほとりにせり出して民家や古い旅館、キャンプ場が並んでいる。

木崎湖 仁科氏 森城

木崎湖には、森城という中世前期の古城跡がある。

犬も歩けば棒に当たるで、適当に散策して城に行き当たることができるのが、北海道より南の、それも信州など古来人の手が多く入った地域の良い点だ。

森城、現・仁科神社

まず登りを見てわかるのは、森城を居城とした中世前期の仁科氏が、桓武平氏の流れだろうということである。

揚羽蝶の家紋は、伊勢平氏のいわゆる「平家」らと同じである。

wikiで調べてみると、やはり桓武平氏の流れを汲み、さらに安倍氏係累でもあるらしい。

さらにこの森城の仁科氏を、木曽義仲の次男、「朝日次郎」源義重が攻め落としているらしい。

ja.wikipedia.org

頼朝に心中を誓った後での、頼朝の命によるらしい。

義重には、義仲のブレーンであった大丈坊覚明とともに備後尾道に下ったとの説もある。

この備後尾道に下ったとされる義重の末裔と比定されるのが、誰あろう筆者である。

尾道には、覚明を祀った覚明神社というものがあるらしい。

一度行って、経緯をくわしく調べてみたい。

www.ononavi.jp

中世の武士は、現代の一般人が考える以上に、各地を飛び回っていた。

荘園が散在し、さらに各所を流通路として物流が形成されていたからである。

瀬戸内広島と信州の山奥、これらを行き来したとて不思議ではない。

実際、覚明神社のある尾道市向島からしまなみ海道を通って行った大三島にある大山祇神社には、義仲が寄進した等検討が存在するのを神宝館で見た。

厳島神社を持つ平家との対抗等の中で、何らかのゆかりがあったのだろう。

木崎湖

 

5.二泊目

一泊目はややズッコケ気味だったが、二泊目は白馬リゾートの底力を見せてもらった。

シェラリゾート白馬である。

 

sierrahakuba.jp

 

前景

車寄せから

ここは玄関先に足湯、宿泊客なら無料で食べ放題の山菜汁などの振る舞いがある。

さらにフロントから先には広々としたガーデンや、パーティーホールをワーケーション用などに開放した広間、フリードリンクなどもある。

古民家を移築改装した温泉など目玉もある。

室内1

室内には暖炉、ベランダには露天風呂まで完備している。

室内2

ベッドも広々としている。

ガーデン1

ガーデン2 森のようなガーデンの中に客室棟がある

宿泊客を楽しませる仕組みに凝っており、地場資本の経営のホテルでありながらリゾートの最先端のエンターテインメント性を充実させている。

これで一泊35000円らしい。

内容を考えればディスカウント価格と思える。

ガーデン全景 手振れが・・・

オオデマリ

ホテル前景2

部屋の什器はやや古いが、そんなことは全く些末に思わせるほどに楽しませてくれる魅力にあふれた良いホテルである。

 

6.総括

今まで信州に家族で行ったことは数多いが、白馬まで足を延ばすことはなかった。

しかし、岩岳、シェラリゾートなど、夏の避暑に格好の素晴らしい施設が多い。

冬だけでなく、夏のリゾートとしても、信州の他の地域に大きくアドバンテージのある良い地域だ。

今度は私用で泊まりに行きたいね。

また、白馬やその周辺は、善光寺や戸隠もあり、歴史的遺産が多い。

白馬の開発を見据える人たちも、そうした歴史的文脈の誇りを持ち、外国資本の力を取り入れつつも主導権は自分たちが握るという気概に溢れている。

その点で、ニセコを反面教師にするしたたかさを持ち合わせている。

何百年と地元に根付いて地主として生きてきたからこその意識と思う。

歴史の重みは、こうした住民のその地域を守ろうとする意識を生み、それが自らが主導していかねばならないという戦略的思考をも生む。

考えれば我が祖父や曾祖父も、600年の昔からの、閑院流藤原氏の荘園の庄司としての旧家の重みを感じ続けてきたわけだ。それが彼らを縛ってきたところもある。

そうした時の積み重ねは、枷にもなりうるし、将来を創るうえ必要なよすがともなりうる。

いい値段で土地が売れるとすぐによそに移住してしまう人が多いニセコでは、逆立ちしてもできない強みだと思う。どだい、歴史の重みが違う。

歴史を始め文系科目は軽視される傾向にあるが、こうした生活に根付いたところでも、人々の意識に大きな違いを生むことがわかる。

では、信州になくて北海道にある強みは何か。

圧倒的に、食材である。

信州は、思えば蕎麦とリンゴはあるが、それ以外に旨いものが豊富にある、というまでの印象はない。

これは飯田、木曽、諏訪、松本、長野に至るまで全域に感じることだ。

実際、白馬の食は、「ごちそうといえば刺身」という海なし県のご他聞に漏れず、という感じだった。

その点で、牛肉には劣るがそれ以外は野菜から海産物まで豊富な北海道は圧倒的有利といえるし、グルメツーリズムを押し出す必要がある。

ニセコに関していえば、北海道が持つ「素材一流、味付け三流、サービス五流」の課題のうち、味付けまではかなり追い上げている。

あとは、高級ホテルであるにもかかわらずワーキングホリデーかなにか、どこの馬の骨とも知れぬボーイがなめた仕事をしているサービスが徹底的に改善されれば何とかなるだろう。

歴史の重み



北信越巡行 その3 長野

牛に引かれて善光寺

妙高の後は長野である。

長野には2016年秋に家族旅行でいって以来である。

長野を回るのであれば、牛に引かれて善光寺である。

善光寺さんに参らない手はない。

善光寺参道の洋館的な建物

時刻は午前11時。

気が滅入る廃墟ツアーの後で訪れた長野市内は、やたらとにぎわっていた。

なぜか。

7年に一度の御開帳の時期に当たったのである。

www.gokaicho.com

前回参ったのが6年前だから、前回の御開帳はさらにその前だったことになる。

仲見世通りの輿

こうした山車などが出て祭りの賑わいであった。

コロナ禍もあって、こうした賑わいは久しぶりだ。

参道には古くからの旅館も多い

参道の賑わい

善光寺の周りには多くの塔頭や僧房が見られる。

画面左にも寺院の壁が見える。

五本線がある。

この塔頭は、門跡寺院だとわかる。

善光寺にも門跡寺院があるということらしい。

さすが、「単立無宗派」の特殊な寺院とはいえ、全国に名をはせる歴史ある大寺院だけのことはある。

仲見世通り

人いきれでお焼など買う余裕もないくらいだ。

御開帳の儀式の執り行い中

善光寺は、極めて特殊な寺院である。

まず成立の経緯がなかなか類を見ない。

庶民の信仰を発端に生まれた寺院だという。

庶民がそれぞれの信仰を基に寺が建立され、さらにそこに叡山や仁和寺の高僧が招かれた。

現在、寺は天台宗山門派延暦寺と浄土宗総本山仁和寺から派遣される僧侶の共同運営のようになっているらしい。

中世の寺社勢力論などからすると、いわゆる絶対アジールのようなものに相当すると考えられる。

善光寺寺門

善光寺自体が一つの統治権力でもあったようだが、鎌倉幕府や周辺諸勢力の動乱に巻き込まれていたようで、興福寺延暦寺ほどの強大な軍事力まで持ち合わせていたのかはよくわからない。調べる必要がある。

脇にある参道

天気にも恵まれ、参拝によい日よりであった。

町中がお祭り

御開帳は今月末まで、延べ1か月ほど続くが、どうやらその間土日祝日は連日こうしたお祭りの賑わいのようである。

コロナ禍が結局どうなったのか、よくわからない相変わらずの日本流のあいまいさには辟易するが、合理的に考えればワクチン接種が進み感染による重症化等のリスクが一定程度まで下がった段階で、こうなるのは見えていたことである。

徐々に世の中が賑わいを取り戻していってほしいし、その復活の兆しを垣間見れたのはよかった。