手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

司馬遼太郎と源義経

1.街道をゆく

司馬遼太郎の著作は読んだことがなかった。

そもそも、時代小説なるものが嫌いである。

特に、小説家であり文学者でもある佐藤亜紀氏が「信長・秀吉・家康小説」と揶揄する信長・秀吉・家康の通俗的なエピソードをテープレコーダーのように繰り返すだけの焼き直し小説など、読む時間の無駄とすら思える。

やれ、木下藤吉郎が信長の小姓時代に草鞋を胸に抱いてあたためた、だの、三方原の敗戦後浜松城に逃げ帰った家康が敢えて城門を開いて武田の侵攻をやり過ごした、だの、石田三成がぬるい茶から熱い茶まで三杯淹れ分けて秀吉の感心を得た、だの。

小学生の頃に各人の伝記を読んだ際には、面白いものだとも思ったものだが、いい加減いつまで経っても、誰が描いても同じ描写の連続である。無教養なサラリーマンの飲み屋談義のネタでしかない。まぁ、多くの人はそれをこそ欲するのだろうが、私ははなから願い下げである。

こうした固定的なエピソードを通過儀礼的に「こなし」ながら、作家ごとに描写対象の人物像=キャラを若干変えて、ひいては「司馬史観」なる、wikipediaに掲載したら「※出典を掲載してください」などと注意されるような通俗知識の上にゴテゴテ建て増しした謎史観で加飾することで、「オリジナリティの高い」(爆)歴史小説(というより時代小説)なる代物が出来上がる。

だから、吉川英治司馬遼太郎池波正太郎安倍龍太郎も読まない。それよりも学者が書いた最新の研究成果を反映した講談社学術文庫や中公文庫、選書、各種老舗の新書(岩波や中公)などの著作の方が、あり得たかもしれない歴史の実相を、当然ながらより説得力を持って活写する。

翻って、司馬遼太郎である。

今読んでいるのは彼の小説ではなく、紀行文の「街道をゆく」である。

5月に弘前に行った。

先月は盛岡に行った。

司馬は日本や海外の各地を周った際の寄稿文を、「街道をゆく」シリーズとして週刊朝日に連載していた。

その文庫本41巻が、青森県を歩く巻だった。よって、これを手に取った。

執筆時期は、1995年前後とのことで、今から30年前、阪神大震災オウム真理教テロ事件が起こった年であったが、敢えて時事に触れることはない。

主に土地の風土を繊細に描き、該博な知識の基礎の上に想像を巡らす、昭和の大作家の紀行文というに相応しい鷹揚さがある。

2.通俗的な歴史知識と一ノ谷

他方で、やはり気になるのは、通俗的な歴史知識である。尤も、時代も今から30年前であり、現在までの間には、特に中世史研究の発展において大きな懸隔があるため、ある程度無理からぬものではあるが。

巻末近くで、司馬は陸奥湾の港町を訪れる。源義経が、平泉から生きて逃げ蝦夷に渡ったとされる伝説における、渡航地である。

司馬はここで、義経を軍事の天才として、あいも変わらず通俗的に、その異能を絶賛する。

いやいや、違うだろうに。

一ノ谷の合戦では、逆落しの奇襲で平家軍を崩壊させた。

壇ノ浦では(船の漕ぎ手を射るよう命じて、筆者注)平家を殲滅した。

さらに後白河から官位を得て、源氏の棟梁の座を脅かされた頼朝から切られた。

など。

当たらずとも遠からずの部分もあるが、多くは現在の最新の歴史研究の成果からは、やはり遠いところにあると言わざるを得ない。

例えば。

一ノ谷の逆落としを指揮したのは、義経ではないとされる。

地元摂津の豪族、多田行綱であったとする説が、近年は有力である。なるほど、摂津源氏として地元に蟠踞していたのであれば、地理に知悉していたであろう。

さらに、歴史小説執筆にはお手軽な出典である一方、歴史資料としては果たして何次資料なのかすらも定かではない平家物語によるならば、油断して警戒を怠った平家軍が鵯越の逆落しを喰らって、混乱、一気に崩壊、となる。

しかし、これも平家に失礼な話で、実際には東側の平家軍の正面を源氏の本隊、源範頼の主力が激しく圧迫し、平家軍も戦力の大部分を大手の側に割かざるを得なかったのではないか、と推測されている。ゆえに、ガラ空きになった背後を鵯越で挟撃され、崩壊した、と。

以上、私が渉猟した近年の著作、言説からは、どうやら義経は一ノ谷で大して活躍してないであろう、という見解が得られる。

では、なぜ義経がかくも英雄視されるか。

義経が、後白河院はじめ京都の朝廷への戦況報告を行う申次を担っていたからであろう、という指摘がある。

朝廷や院に、大いに潤色して、自らの活躍を大袈裟に吹いたのではないか、と。

3.壇ノ浦と戦争の法

次いで、壇ノ浦である。

よく言われるように、義経は平家軍の舟の漕ぎ手を射るように命じて、戦況を有利に進め、さらに平家を文字通り殲滅した。

ここ一文の中に、二つ問題となる愚行がある。

一つ目、漕ぎ手を射るように命じた点。

この点をもって、(司馬が言っているわけではないが)、戦の常識にとらわれない天才、などという愚鈍な意見を述べる者がいる。

源氏方が率いたのは熊野水軍などであり、平家方は瀬戸内の水軍である。

両者で戦い方に違いがあった可能性は否定できない。

しかし少なくとも、当時現場の瀬戸内海での海戦では、漕ぎ手を射るのは戦争法規違反であったようである。

戦争とは不思議なもので、暴力が支配する無秩序という秩序であるかと思えば、その無秩序を規定する法、戦争の法、なるものがいつの世にも存在するのである。

例えば、古代ギリシャ・ローマであれば、播種の時期になる冬季は戦争を行わない、などが有名である。

当時の日本の、少なくとも瀬戸内の海戦では、漕ぎ手は非戦闘員の扱いであり、攻撃対象としてはならない、という原則があった。

推測だが、水軍・海賊側が、船は提供する代わりに危害は及ぼすな、という条件を出していたのではないか。

いずれにしても、平家物語の記載の真偽も不明ではあるが、仮に義経が命じて平家軍の漕ぎ手を射たのであれば、戦争法規違反となろう。

これを天才ともてはやす人間は、ことの意味がわかっているのだろうか?十分な想像力があるのだろうか?

現代の戦争で例えるならば、こうなる。

敵軍の捕虜を多く捕まえたとする。

その捕虜に、自軍の戦闘服を着せて前線に立たせ、人間の盾とする。

そうすれば自軍の損耗は防がれ、敵軍は前線の盾を敵と誤認し掃討するだろう。

これが、天才の所業か。

単なる、重大な戦争法規違反である。

まず、捕虜に捕らえた側の軍服を着せる行為が、条約違反となる。

次いで、前線で弾除けにするのは、いうまでもなく俘虜の取り扱いとして違法である。

義経の行為を天才と称揚する連中は、状況を理解していない。

単なる戦争の秩序を逸脱した命令でしかない。

ちなみに、戦争は無秩序なのだから、そのルールを破っても問題ないのではないか、という意見には以下の反論が可能である。

多くの戦争では、結局そうしたルールがどんどん無効化していくものではあるが、最低限のルールにはやはり意味がある。

ナポレオン戦争フランス軍の将軍、ミュラの奇策について述べよう。

彼はウィーンに至る目前で、ドナウ川を挟んでオーストリア・ロシア連合軍と対峙した。

ミュラは一計を案じ、「和平だ!和平が決まった!」と言いながら一部の部隊に橋を渡らせた。オーストリア軍はそれを信じて、渡航してきた仏軍と対話を開始する。

そうこうするうちに、後方では仏軍工兵部隊が、オーストリア軍が仕掛けた橋脚の爆薬を回収。全軍渡航してしまった。

その後、和平が虚偽情報であったことがわかった時にはフランス軍渡航を終え、ドナウ渡航を許してしまった。

こうした奇策は、軍事行動中の敵対する部隊どうしの連絡に疑心悪鬼を生み、本当に交渉が必要な際に交渉が機能しなくなる。

戦時のさまざまなルールを無視するということは、和平交渉や戦時交渉という最低限の信頼のもとに行われるべき対話のチャンネルすらも閉ざすのである。

だからこそ、こうした戦争の法は遵守されねばならない。

司馬の話に戻る。彼は、義経を異能の軍事的天才と称え、その活躍に恐れをなした頼朝に消された、といういかにも通俗の史観を披露する。

4.義経像の捉え直し

壇ノ浦での二つ目の愚行は、義経が平家を殲滅してしまった、という点である。

最近の中世史学者の中にある指摘を紹介しておこう。

そもそも、頼朝は平家殲滅を企図していなかったのではないか、という指摘がある。

もっともだと思う。

平家政権の時代から、形の上では、武門の棟梁は平家単独ではなかった。形式上は、清盛と摂津源氏棟梁の源頼政が共同して武力を統括し朝廷を支える形をとっていた。どちらかが単独で武家を束ねるとなると、京都の防衛に失敗した際の責任を一切負わされるなど、武門側にとっても好ましくない事情があったから、清盛が敢えて頼政を前面に立たせた、ともされる。

頼朝も、同様の事情があったと思われる。つまり、武門の責任を単独で背負わされると、院から、何かあった際に朝敵とされ、他の潜在的な武門の棟梁たる全国の武装勢力に反乱を惹起される恐れがあった。

これを防ぐためにも、源平の棟梁はともに迭立する緊張関係を孕みながらも、武門の統括者として責任を分担して立つ必要があった。

おそらく、頼朝としては弱体化した平氏の棟梁を、源氏の者と共に京都において、武力の行使を共同負担しようと考えていたのではないか。推測だが、意図してのことかは別にして、同じ平氏である北条氏を鎌倉幕府のナンバー2=執権として、さらに京都の六波羅にも一門を派遣して駐在させたのは、多少とも源氏と平氏との武門の共同分担関係を演出する結果にもなったのではないか。

話を壇ノ浦に戻す。

さらに抜き差しならぬ事情として、平家は三種の神器を持っていた。

これを平和裡に回収せねば、戦争の目標を達成できないのである。

しかし、義経はこうした戦争目標を無視した。あるいは理解しなかった。

ただただ自らの軍功と戦果を求め、殲滅に動いた。

強引な戦闘遂行の結果、草薙剣安徳天皇と共に失われた。

こうして、源平迭立による武門の共同負担(実質的には源氏が主導権を握るとはいえ)という頼朝の構想は失われ、同時に以後のすべての天皇践祚、即位の正統性まで疑義が伴うという、重大な遺恨が残った。

こうした中で、頼朝の承認を得ず、後白河から官位を得たのが義経である。

彼の事績を要約するならばこうである。

自らは戦闘で軍功をあげずも、他者の功績を自らのものと騙り、誇張し、賞賛を得た(一ノ谷)。

戦争法に違反して非戦闘員を殺傷し、和平交渉の主導権獲得を見込んだ敵軍戦力消耗のための戦闘という「戦闘」目標を逸脱して敵軍を殲滅。あまっさえ「戦争」目標であった三種の神器の一つと天皇の身柄を逸失するという失態。

謀略戦の一環として後白河が仕掛けた、離間工作としての検非違使任官を頼朝に無断で受ける暴走。

以上を見るに、義経の「活躍」とされるものは、結局全て暴走と失策の連続であったのではないか?

そう見れば、奥州仕置きで藤原氏と諸共滅ぼされたのも、(奥州藤原氏にとってはいい迷惑であろうが)無理からぬものとも思えてくる。

判官贔屓など、全くしようという気にもならない。

司馬遼太郎の紀行文は、執筆が今から30年前と古いとはいえ、やはり通俗的な歴史知識に染まりきっているというきらいが強い。

そしてマスメディアが流す大河ドラマレベルの歴史は、いまだにそうした通俗的歴史観の、非拡大的な再生産で生きながらえている。

司馬史観も今や古い、という話であった。